1220年 - 1704年
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「クローンベルク・イム・タウヌス」の記事における「1220年 - 1704年」の解説
1220年頃(ゲルト・シュトリックハウゼンによれば12世紀中頃)にクローンベルク城が建設されたことで、すでにエッシュボルンにモットを所有していた Ritter von Askenburne(エッシュボルン騎士家)は分裂した。「フリューゲル家」は1250年頃にクローンベルクに入城し、これにちなんで「クローンベルク家」を称した(この家系は1617年10月8日にヨハン・エーバーハルトの死によって断絶した)。「フォン・エッシュボルン」という名称は史料には現れない。 1330年4月25日、ハルトムート・フォン・クローンベルクとヴァルター・フォン・クローンベルクは城山の斜面の小さな集落に対する最初の限定的な都市権を皇帝ルートヴィヒ4世によって与えられた。1367年3月31日、皇帝カール4世はウルリヒにクローンベルク開墾地の市場開催権と重罪刑事裁判権(ドイツ語版、英語版)を授けた。 1389年、クローンベルク騎士家はハットシュタイン家およびライフェンベルク家とともにフランクフルト市に対していわゆるクローンベルガー・フェーデを宣言した。5月13日大動員されたフランクフルト兵がクローンベルク城に出兵した。ハーナウ軍とプファルツ選帝侯軍がクローンベルクを救援するためにこれを包囲した。5月14日の「エッシュボルンの戦い」でフランクフルトが敗れ、600人以上が捕虜となったが、この中には貴族の参事会員や強制的に動員されたツンフト会員(肉屋、鍵屋、靴屋、パン屋)もいた。リムブルク年代記は以下のように記している。「小さな群れが大きな群れを打ち倒した。これは奇跡じゃない。大きな群れは逃げだし小競り合い。おお、フランクフルト! フランクフルト! この戦いを記憶に刻め!」 1389年8月22日の交渉で、当時としては法外な額の身代金 73,000グルデンでフランクフルトとの戦いを終結させた。フランクフルトはこの支払いに約120年間苦しみ、「フランクフルター・ラントヴェール」(国境防衛施設)の建設を始めた。しかしその後すぐに和平協定が結ばれ(1391年)、クローンベルクとの同盟が模索された。1394年にフランクフルト議会はハルトムート・フォン・クローンベルクを2年間ボナメスの吏官に任命した。1395年にヨハン・フォン・クローンベルクは詳細な同盟条約を策定した。そこではクローンベルクがフランクフルト市民とそのメッセを護る義務を負うとされていた。最終的には1398年に条約が結ばれた。この書状は、現存するドイツ最古の保護条約文書とされている。1390年に、現在はノイシュタット(新市街)と呼ばれている、第2の市壁が建設された。 ハルトムート12世フォン・クローンベルクが、いとこのフランツ・フォン・ジッキンゲン(ドイツ語版、英語版)によるトリーアおよびヴォルムス攻撃を援助していたため、1522年トリーア大司教リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ・ツー・フォルラーツ、ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ、ヘッセン方伯フィリップはクローンベルクの街と城を包囲し、無条件降伏を引き出した。ハルトムートは逃亡した。しかしクローンベルクは帝国レーエンであったためフィリップは、ルター派教会の守護権を分割する条件で、1541年に城と街をハルトムートに返還しなければならなかった。この守護権はヘッセン=ダルムシュタット方伯によって17世紀および18世紀にその有効性が確認された。後の1626年から1649年の対抗宗教改革や教会の脱宗派、1737年から1768年の共同教会化後も有効とされたのである。 「古い伝統を誇るクローンベルク家の最後の成員」は、1704年に子をなさずに「神の祝福をうけ眠るヨハン・ニクラス・フォン・ウント・ツー・クローンベルク、イーベン、ローデンベルク、ホレンフェルス、アルテンバンベルクの領主」と墓碑銘に刻まれている。伯位に昇格した後継者はアールタールを見おろすホーレンフェルス城(現在のハーンシュテッテン)で亡くなった。クローンベルクとシェーンベルク、ニーダーヘーヒシュタット、エッシュボルンは帝国レーエンとしてマインツ選帝侯に授けられた。
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