黒田清隆の時代とは? わかりやすく解説

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黒田清隆の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:10 UTC 版)

開拓使」の記事における「黒田清隆の時代」の解説

樺太では、箱館府時代から岡本監輔統治の任にあたっていた。兵士移民送りこむロシア対し日本劣勢に立たされていることに強い危機感抱いた政府は、明治3年1870年)に樺太開拓使設置し黒田清隆開拓次官にして樺太専務命じた樺太視察した黒田は「現状では樺太3年もたない」という深刻な報告行ない対抗する国力充実させるために北海道開拓力を入れるべきだと論じた彼の建議従い明治4年1871年8月19日10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画いわゆる開拓使十年計画決定された。 明治4年1871年10月に東久世長官辞職すると、黒田次官のまま、東京にあって開拓使の長となった明治5年1872年10月旧館であった渡島国属す福島郡津軽郡檜山郡爾志郡の4郡が青森県から開拓使移管された。黒田明治7年1874年)に長官となったが、北海道赴任せず東京から指示を出す態勢をとった。黒田米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人招いて政策助言技術伝習を行わせた。 御雇外国人クラーク御雇外国人ケプロン御雇外国人ダン御雇外国人(ベーマー) 黒田は、北海道開拓難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考え抱いていた。この方針に反対した岡本辞任もあって、樺太開拓進展しなかった。結局明治8年1875年5月樺太・千島交換条約によって日本樺太手放した交換の際、日本樺太アイヌ北海道に移住させた。札幌本庁統括していた松本十郎は、漁民多かった樺太アイヌ内陸部移住させる事に反対して辞任した松本辞職初期の開拓使の高官はほぼいなくなりかわって黒田頂点にした薩摩藩閥が開拓使支配した開拓使潤沢な予算用いて様々な開拓事業推進したが、広大な範囲でなおも全て完遂するには不足であり、測量道路鉄道などの基礎事業早々に切り上げ産業育成重点をおいた。明治9年1876年)には、札幌農学校開拓使麦酒醸造所設立され現在の北海道大学サッポロビールに至るまでの140年間にわたり、道内外の産業振興大きな役割を果たすこととなる。 十年計画満期近くなった明治14年1881年)に、黒田開拓使事業継承させるため、部下官吏官有施設、設備安値払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げ主役薩摩政商五代友厚だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。 開拓使は翌明治15年1882年)に廃止され北海道札幌県函館県根室県分けられた。

※この「黒田清隆の時代」の解説は、「開拓使」の解説の一部です。
「黒田清隆の時代」を含む「開拓使」の記事については、「開拓使」の概要を参照ください。

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