かけ‐おち【駆(け)落ち/×駈け落ち/欠(け)落ち】
駆落ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 16:26 UTC 版)
松尾芭蕉の門下の一人の志太野坡は主に西日本で教え、門下1000名と言われた。その弟子の一人、湖白は医業の傍ら、福岡を主に俳諧を教えていた。湖白は本名を有井新之助といい、元禄15年(1702年)福岡の直方に生まれた。父親は福岡藩士であり、新之助は文武両道に優れ神童といわれた。15歳の時、志太野坡に入門。20歳の時に喀血した。師匠に認められるのに10年かかったという。選集などにも選ばれ始めた。旅で俳諧を教えていたが、41歳の時に出会った庄屋の妻・なみと駆け落ちをした。二人は、不義ということで、間道などを使い駆け落ち、京都の同じ俳門の出版業者を頼った。その後、大坂に移動した。湖白は浮風と改名し、医業を棄て、俳諧に集中した。師匠の覚えはよくなかったが、その後頭角を現し、師匠の13回忌を取り仕切った。京都に移動した。蝶夢の援助で湖白庵を設けた。なみも浮風に俳諧を手ほどきされ上達した。宝暦12年(1762年)に浮風が没す。百日後、なみは剃髪した。浮風の追善集「その行脚」を編集する。その後、なみ(諸九尼)は女宗匠を目指す。明和3年(1766年)、諸九尼は初の歳旦帳を発行する。歳暮や新年の句を集めたものである。
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