音楽が死んだ日
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音楽が死んだ日(おんがくがしんだひ、The Day the Music Died)は、小型飛行機がアイオワ州クリアレイク近郊に墜落し、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、J.P."ビッグ・ボッパー" リチャードソンの3人のミュージシャンとパイロットのロジャー・ピータースンの4人全員が死亡する事故が発生した1959年2月3日を指す通称である[2]。
- 1 音楽が死んだ日とは
- 2 音楽が死んだ日の概要
音楽が死んだ日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
詳細は「音楽が死んだ日」参照 2月2日、ツアー11日目アイオア州クレアレイクの「サーフボールルーム」でのステージを終えた一行は次の公演先ミネソタ州ムーアヘッドへ向かう。365マイル(約600キロ)を拷問に等しいオンボロバスでの移動を嫌ったバディは小型飛行機をチャーターする事に決めた。自分がツアーに誘ったジェニングスとオールサップも同乗させ少しでも休息とるつもりだった。しかしジェニングスは体調不良のビッグ・ボッパーに気を使い席を譲り、オールサップはヴァレンスとのコインの裏表の賭けに負けバスの座席を余儀なくされた。2月3日午前0時55分、三人のロックスターを乗せたビーチボナンザ機は猛吹雪のメイソンシティ市営空港を飛び立った。 2月3日UPI通信発表 「本日アイオア州クレアレイクでチャーター機の墜落事故発生。パイロットを含む乗員4名が全員死亡。乗客は全国トップクラスのロックンロール・スター、リッチー・バレンス、J.P(ザ・ビッグ・ボッパー)リチャードソン、バディ・ホリーの3名。」 TVニュースで事故を知った妊娠2か月のマリア夫人はショックの余り流産、愛する家族を同時に失う悲劇に見舞われる。2月7日ラボック、タバナクルバプテスト教会で葬儀が執り行われた。バディ・ホリー、享年わずか22歳であった。興行を主催したプロモート会社ゼネラル・アーティスト・コーポレーションは事故の遠因となった過酷な日程を指摘されるもツアーを続行、ボビー・ヴィー(当時15歳)がバディの代役を行った。コーラルレコードは2月28日LP『ザ・バディ・ホリー・ストーリー』をリリース、故人を追悼。事故調査を行った民間航空委員会(CIV) は原因を「悪天候とパイロットのミスが重なり発生」と結論付けた。
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音楽が死んだ日
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ヴィーの成功は、悲劇の最中から始まった。後に「音楽が死んだ日 (The Day the Music Died)」と呼ばれることになった1959年2月3日、「ウィンター・ダンス・パーティー」のツアー中だった3人のスター、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ザ・ビッグ・ボッパー(The Big Bopper)が、次のショーが予定されていたミネソタ州ムアヘッド(Moorhead)への移動中、搭乗していた1947年製ビーチクラフト・ボナンザV字型尾翼機(登録番号:N3974N)がアイオワ州クリアレイク(Clear Lake)付近に墜落し、21歳のパイロットロジャー・ピーターソン(Roger Peterson)も含めて全員が死亡してしまった。当時15歳の高校生だった(まだヴィーと名乗る前の)ヴェリーン少年は、ノースダコタ州ファーゴで仲間と急ごしらえのバンドを作ってザ・シャドウズと名乗り、ムアヘッドのライブでホリーたちの穴を埋めるという荷の重い仕事に手を上げ、引き受けることになった。彼らのパフォーマンスは成功し、以降、ヴィーが人気歌手として成功する道へとつながる様々なイベントが連鎖的に起こっていった。 1963年、ボビー・ヴィーはリバティー・レコードから『I Remember Buddy Holly』というトリビュート・アルバムを発表した。アルバムに付けられたスリーブのノートで、ヴィーはホリーが自分に与えた影響について、ホリーの悲劇的な死をめぐる出来事について、次のように述べている。 ほかの数多くのみんなと同じように、ホリーの歌を初めて聴いたときに、バディ・ホリー・ファンになった。そのとき以来、僕はずっとファンでいたし、これからもずっとファンでいるだろうと思う。数年前、バディは僕の故郷の町であるノースダコタ州ファーゴでダンス・イベントに出演することになっていた。これは町中のみんなにとって大きなイベントになるはずだったが、僕にとってはそれ以上のことだった。僕は、本物のバディが動くところを見られるのを、不安とともに楽しみに待っていた。 バディが到着するはずだった日、悲劇が襲い、バディの命を奪った。リッチー・バレンスとザ・ビッグ・ビッパー、2人のすばらしい歌手たちも一緒だった。この衝撃的なニュースは、ファーゴの町中に瞬く間に伝わった。地元のラジオ局は、ダンス・イベントに出演できる地元のタレントを求める呼びかけをした。その1週間前、僕はボーカルと楽器で5人編成のバンドを組んだばかりだった。僕たちはバディのアプローチのモデルにしていて、バディのヒット曲を念頭に置いてリハーサルをしていた。ラジオの呼びかけを聞いた僕たちは、出かけていって、自分たちがやりたいと申し出た。その時点ではまだバンドの名前も決まっていなかったので、その場で「ザ・シャドウズ (The Shadows)」という名を決めた。ダンス・イベントに出演し、ありがたいことに熱烈に歓迎された。そのすぐ後に、僕は最初のレコードを作った。それは「スジー・ベイビー (Suzie Baby)」という曲で、とても幸運なことに、かなりのヒット曲となった。 少し前から、僕はバディに捧げるトリビュート・アルバムを制作してほしいと求められていたけれど、それが正しいことなのか確信がもてなかった。しかし、昨年中、そうしたアルバムを作って欲しいというリクエストをたくさんもらって、それも僕のファンやDJたちからだけでなく、まだまだたくさんいるバディの忠実なファンたちからもリクエストがあったんだ。それが…このアルバムをつくる自信をもたせてくれた。「スジー・ベイビー」からこのアルバムまで、たくさんレコードを作ってきたけど、バディ・ホリーのことや、彼が僕の歌い方やキャリアに与えた影響の大きさは、決して忘れたことはない。 ヴィーは、素人同然の状況でデビューしたにもかかわらず、その後、正真正銘のスターとなり、今日、クリアレイクで開催されている「ウィンター・ダンス・パーティー」のメモリアル・コンサートには、定期的に出演し続けている。
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