霊界通信
『シャルロッテ・フォン・クノープロッホ嬢への手紙』(カント) 先頃死去したオランダ公使に、スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)氏が生前の債務について問うた(*→〔貸し借り〕4)。オランダ公使は、「私の死去7ヵ月前に支払いは済ませた。領収書は上階の一室の戸棚にある」と答える。公使の未亡人が「戸棚に領収書はなかった」と言うと、スヴェーデンボリ氏は、「ご主人から、『引出しの中の板を取り除けば、秘密の引出しが現れ、その中に領収書がある』と聞きました」と告げる。未亡人は大勢の立会人の前で秘密の引出しを開け、領収書を見つけ出した。
『オカルト』(ウィルソン)第2部「魔術の歴史」・6「十九世紀の魔術とロマンティシズム」 1848年。ニューヨークのフォックス家で戸や板を叩く音が続き、2人の娘(12歳と15歳)が、物音をたてる霊と交信した。やがて家族や隣人たちも交信に加わり、言葉による質問に霊はノック音で答え、「自分は金を目当てに殺され、地下の貯蔵庫に埋められている」と告げた。貯蔵庫を掘り起こすと、朽ち果てた人骨が出てきた。この家の以前の住人によって殺された、行商人の遺骨らしかった〔*すべて娘たちのいかさまだ、とする見解もある〕。
『殉教』(星新一『ようこそ地球さん』) 霊界と交信できる機械が発明された。現世の人間からの質問に対して、霊界の死者たちが口々に、死後の世界の快適さを語る。それを聞いた人間たちは、「霊界がそんな良い所なら、はやく行こう」と、次々に自殺する。あとには、機械を信じない少数の人間だけが生き残った。彼らは、宗教も科学も人間も自分自身も死も、信ずることができない。これから彼らは、どのような社会を作るのだろうか。
『今昔物語集』巻24-39 藤原義孝は死後10ヵ月ほどを経て、僧賀縁の夢に現れ、「時雨には千種の花ぞ散りまがふ何ふるさとの袖ぬらすらむ(下界に時雨の降る頃、私のいる極楽では、色々の美しい花々が散り乱れている。下界では、どうして皆、私の死を悲しんで、涙の雨で袖をぬらすのだろう)」との歌を詠んだ。義孝は妹や母の夢にも現れて、歌を詠んだ。和歌を詠む人は、死後にも、このような優れた歌を詠むものなのだ。
★5.霊界通信の誤り。
『宇治拾遺物語』巻4-16 了延房阿闍梨が琵琶湖畔の唐崎を通る時に、「有相安楽行、此依観思」との経文を唱えた。すると、波の中から「散心誦法花、不入禅三昧」と続きを唱える声がして、「具房僧都実因」と名乗った。2人は法文を談じ合ったが、実因は少々僻事(=誤り)を答えた。了延房が誤りを指摘すると、実因は「私は冥界にある身だから、それはしかたがない。私だからこそ、この程度にも申すことができたのだ」と言った。
★6.長期間に渡る霊界通信。
『小桜姫物語』(浅野和三郎) 昭和4年(1929)春、小桜姫(400年前の足利時代末期に生きた女性)からの霊界通信が開始された。姫は、入神中のT女(浅野和三郎の妻・多慶子)の口を借りて語り、和三郎が筆録して、足掛け8年の間に数冊のノートができた。和三郎は通信内容を整理・編集して、昭和11年(1936)秋に1冊の本(『小桜姫物語』)にまとめた。しかし翌年2月、和三郎は急病で死去し、『小桜姫物語』は没後の出版となった〔*和三郎没後も、小桜姫から多慶子への通信は続き、多慶子は昭和46年(1971)、88歳で死去した〕。
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