電力業界・産業界の有識者としての活動と晩年とは? わかりやすく解説

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電力業界・産業界の有識者としての活動と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:26 UTC 版)

松永安左エ門」の記事における「電力業界・産業界の有識者としての活動と晩年」の解説

第二次世界大戦後1946年昭和21年)、小田原市板橋に「松下亭」(後に「老荘」)を建てて埼玉県柳瀬(現・所沢市)から移り住まいとした。柳瀬所蔵していた美術品柳瀬荘東京国立博物館寄贈した小田原では益田孝鈍翁)、野崎廣太(幻庵)の後を受けて近代茶道嗜み小田原三茶人称される当時GHQによる占領政策上、日本発送電会社民営化課題になると、かつての敵、池田成彬推薦により、吉田茂電気事業再編成審議会会長抜擢された。日本発送電側は独占体制守ろう画策したが、反対の声を押し切り、意を共にする木川田一隆池田勇人らと9電力会社への事業再編による分割民営化九電力体制)を実現した最終的にGHQ反対派をねじ伏せた。さらに電力事業今後の発展予測して電気料金値上げ実施したため、消費者からも多く非難浴びたこうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになった1951年昭和26年)、こうした経緯から電力技術研究開発効率的かつ国家介入など外圧影響されることなく実施するため、9電力会社合同出資ありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク電力中央研究所」を設立し晩年は自ら理事長就任した1956年昭和31年)、私設シンクタンクである「産業計画会議」を発足させて主宰し経済分野国家的政策課題について政策提言行った提言内容の例として東名高速道路名神高速道路計画や、国鉄民営化日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画北海道開発などがある。報告書内閣衆参両院中央官庁届けられ政府の政策大きな影響与えた1959年昭和34年)、財団法人松永記念館設立自宅敷地内松永記念館本館を建て、収集した古美術品を一般に公開したまた、欧米視察の際に知遇得たアーノルド・J・トインビーの『歴史の研究』の翻訳刊行尽力した1962年昭和37年)、松永米寿記念し池田勇人内閣総理大臣発起人となって財団法人松永記念科学振興財団1962年 - 1978年)、松永賞(同)が創設された。米寿祝い池田だけを呼び何もない電力中央研究所本部屋上行った1968年昭和43年)、慶應義塾命名百年式典にて、高橋誠一郎と共に名誉博士称号授与された。 1971年昭和46年6月16日肺真菌症為に東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院にて死去95歳没。葬儀故人遺志により一切行われず松永家財界人弔問香典供花なども辞退している。墓所埼玉県新座市平林寺電力産業松永かかわり描いたものに、大谷健興亡電力をめぐる政治と経済』(吉田書店2021年初版産業能率短期大学出版部1978年再版白桃書房1984年)がある。

※この「電力業界・産業界の有識者としての活動と晩年」の解説は、「松永安左エ門」の解説の一部です。
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