関東の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:02 UTC 版)
関東地区では日本軍の作戦方針の大転換によって、「水際配置・水際撃滅主義」の方針で陣地や作戦の再構築がアメリカ軍侵攻直前になって開始されるという事態となっていた。しかし、日本軍のこの方針はアメリカ軍も想定しており「人的資源は極めて軽んじられ」「最強部隊を比較的犠牲の少ない内陸部の防衛に使用して戦力の温存をはかるので」「水際の防衛には正規兵の増援で補強された予備の大集団が当たるであろう」と水際の沿岸配備師団が捨て石となって、上陸軍の足止めをはかるであろうと予想していた。そして上陸した部隊はその捨て石部隊との近接戦闘に巻き込まれて、敵味方が近接するなかで「アメリカ軍の空爆、重火器攻撃、海軍の艦砲射撃はターゲットの選定に重大な制限を受ける」と懸念していた。これがまさに日本軍が方針変更で目指しているものであり、強化した海岸陣地で沿岸配備師団が徹底抗戦し、上陸部隊と敵味方入り交じりアメリカ軍が砲爆撃を控えている中で、日本軍は砲兵隊が支援砲撃を友軍がいるのにも構わずに撃ち込んで大損害を与えて、そこに反撃部隊が48時間以内に駆けつけて、上陸軍を攻撃し水際での撃滅をはかるというものであった。 日本軍は九十九里浜に主力が上陸するものと想定して(実際にアメリカ軍が主力を投じる予定だったのは相模湾)、長い海岸線に第52軍の「はりつけ師団」の沿岸配備師団2個と、機動打撃のために、近衛第3師団、機動打撃師団1個の合計4個師団が配置された。そしてこの4個師団が上陸軍を足止めしている間に、第36軍の戦車第1師団、戦車第4師団、第81師団、第93師団と機動打撃師団4個の合計8個師団が決戦を挑むという作戦であった。第36軍は戦況に応じて、二次的戦線とされた相模湾に対する反撃にも対応できるよう、九十九里浜と相模湾の中間地点あたりに展開していた。しかし、砂地への陣地構築は想定以上に困難であり、いくら掘っても、次から次へと砂が崩れ落ちてせっかく掘った穴が埋まってしまった。そこで木材で箱型の陣地を作って砂地に埋没させようとしたが、重さが完全に平均していないと、箱は砂地のなかで傾いてしまい、一部が地上に露出してしまうなど、なかなか陣地構築が進まなかった。昭和天皇は御前会議において、本土決戦を諦めポツダム宣言受諾を支持する理由として、九十九里浜の陣地構築も出来てないことを指摘し、従来の例からしても計画に則った防衛体制は望めないであろうとの見通しを示唆している。関東の防衛を受け持つ第12方面軍及び東部軍管区司令部の参謀長であった高島辰彦少将もこの天皇の発言に対して「本土決戦は、結局九十九里浜の陣地に象徴される “ 砂上の楼閣 ” であった」とのちに回想している。 二次的戦線とされた相模湾に配置されていたのは第53軍であり司令官は徐州会戦などでの勇猛果敢な作戦指揮で「鬼赤柴」の異名を持つ赤柴八重蔵中将であったが、戦力は2個歩兵師団と1個戦車旅団と不十分なものであった。しかし、主力の第84師団は根こそぎ動員で編成された急造師団ではなく、廃止された陸軍教導学校の学校幹部を中心に留守第54師団の兵力で編成された師団で、ことに将校の質が非常に高く、1個中隊が他の1個大隊に匹敵すると評されるぐらいの精鋭師団であり、第32軍から引き抜かれた第9師団の代わりに沖縄に派遣が検討されたほどであった。その際は、本土防衛の貴重な戦力として大本営第1作戦部長宮崎周一中将の猛反対で沖縄行きは中止されて、この重要な相模湾の防衛に配置されたものであった。もう1個の第140師団はいわゆる沿岸配備師団であったが、近衛師団の留守師団を中心として編成された精鋭師団であった。同師団は相模湾に配置されてからは、精力的に陣地構築を行い、終戦までに1個連隊ごとに約100,000Mの長大な坑道を掘削しており、構築された陣地には海軍の要塞砲も含めた、二十八糎砲、四五式二十四糎榴弾砲、九六式十五糎榴弾砲、八九式十五糎加農砲、八九式十五糎加農砲、九二式十糎加農砲などの大口径砲と山砲、野砲、四式四〇糎噴進砲など多数の火砲が多数配置された。特に大磯の海岸に対しては濃密な火線を形成しており、上陸部隊に痛撃を与えられると考えられていた。 相模湾に上陸するアメリカ第8軍がコロネット作戦での主力であり、上陸初日のYデイにはアメリカ4個師団と支援部隊の203,434人が相模湾に殺到する計画であった。それに対して第53軍司令官の赤柴中将は「敵、我が正面に殺到すべしと判断する兵力,此は10対1と考へて施策を考ふべし」と将兵に訓令するなど、兵力の圧倒的劣勢を自覚しており、大本営に戦力増強を求めていたが、1945年7月に京都で編成された第三次兵備の第316師団が増援として送られてきた。赤柴は上陸軍の主力が平地で障害物のない茅ヶ崎から藤沢に至る地帯に上陸してくるものと予想していたが、陣地構築が順調に進んでいる大磯と比較すると、沿岸一帯に強固な陣地を構築できる地形が少なくその対策に苦慮していた。そこで、赤柴は対上陸の基本方針である「後退配備・沿岸撃滅主義」は困難と判断し、陣地を海岸線にまで前進させて「水際配置・水際撃滅主義」に方針転換をした。その方針転換に基づき、増援として送られてきた第316師団を茅ヶ崎から藤沢に至る地帯の水際に配備することとした。しかし、砂浜への陣地構築は困難で、また装備が不十分な第三次兵備の第316師団ではまともな戦闘は困難であったため、散兵壕を大量に掘削し、そこから敵戦車に対して爆雷を背負って肉弾攻撃するといった特攻作戦の訓練が連日行われた。奇しくもこの「水際配置・水際撃滅主義」への回帰は日本軍全体の方針転換とも一致しており、茅ヶ崎を視察した陸軍大臣の阿南惟幾大将も赤柴の作戦方針を了承している。
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