逮捕と投獄
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当時、片山の手伝いをしたため、周囲からは片山の個人秘書と思われていた。片山と相談して、コム・アカデミー(共産主義大学)に入学を希望し、パスした直後、入学許可証をもらいに行く途中の道路でゲー・ペー・ウー(GPU)に逮捕され、投獄された。GPUの本部の建物からブッテルスキー監獄の雑居房に移される。スパイ容疑でソ連刑法第58条第6項に該当するという逮捕理由を示され、尋問が始まる。GPUとの協力を断ったことなど、数々の疑惑が示された。国崎定洞の紹介で片山を頼ってきた根本辰(ねもと・とき)という『無産者新聞』にも関わったことのある青年(京都帝国大学出身)を世話したことも、疑惑の一つになっていた。片山と山本懸蔵とは対立関係にあり、党員でない根本を特別高等警察(特高)のスパイと疑って、モスクワで勉強させることはできないと山本は決定していた。勝野はコーカサスに静養中の片山に連絡をして、根本に対する処置への対応に当たっていた。勝野の逮捕には山本が関わっていたとみられる。 ゲー・ペー・ウーの疑惑を認める書類に対して署名を拒否した勝野は、「昨日までわれわれは社会主義国家であると胸を張っていた。その社会主義国家の内面はどうだ?罪のない党員が何の保障も警告もなく、野良犬のように、野蛮極まりなき男どもにとっつかまって牢にぶちこまれ、思いもよらぬ汚名を着せられ地獄の責苦を受けなければならない……」と怒りのやり場もなかった。監房は第一次五カ年計画の強行に伴い、収監者ですし詰めになっていった。寒い冬が過ぎて1930年が終わり、ついにハンガー・ストライキを宣言、独房に移され13日後に気絶して、病院に運ばれて回復した。 再び監獄に戻され、1932年に入って「5ヵ年の自由剥奪・強制労働」という判決を受けた。トラックに詰め込まれ、30両連結の囚人貨車列車に乗り換え、ウラル山脈を越え、ラーゲリに入れられる。一時病院に収容された勝野はラーゲリを出て国営農場での農作業に使役され、その後再び囚人列車で西に向かい、フィンランドに近いムルマンスク、ベル・バルト集中ラーゲリで、白海・バルト海運河掘削の労働に使役される。怪我をして、その病院で助医の資格を得、少し楽な生活を送ることができた。
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逮捕と投獄
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「ジェフリー・エプスタインの死」の記事における「逮捕と投獄」の解説
2019年7月6日に、ニューヨークでジェフリー・エプスタインは性的人身売買などの容疑で逮捕された。彼は無罪を主張した。 7月23日にエプスタインは監房内で首を負傷し、意識不明になった状態で見つかった。エプスタインと同じ監房に入っていた者は、エプスタインに危害を加えていないと述べた。メトロポリタン矯正センターの内部調査でも、同房者はこの件においてエプスタインに危害を加えていないと判断された。この件を理由として、エプスタインは自殺警戒監視下に置かれた。エプスタインは照明と窓が備え付けられた部屋に移され、自殺のために利用される可能性のある道具が与えられない措置が取られた。その6日後、精神医学担当者の所見に基づき、エプスタインの自殺警戒監視措置が解除された。次にエプスタインが収容される監房は、同房者がおり、30分毎に看守が見回りに来ることになっていた。 8月8日、エプスタインは自身の財産を信託に移すという内容の遺言書に署名していた。
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