近現代の治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:03 UTC 版)
明治時代になると、新政府はヨーロッパの治水先進国だったオランダからコルネリス・ファン・ドールンやヨハニス・デ・レーケらに代表される治水技術者を招聘し、近代的な治水技術の摂取に努めた。デ・レーケが常願寺川を見て言ったとされる「これは川ではない。滝だ。」という言葉は、日本の河川の特殊性・治水の困難性を表すものとして知られている。オランダ人技術者がもたらした治水は、河道に水制を設けて流路の安定を図り河床を掘削して流量を確保することを基本とする低水治水であった。併せて、組み合わせた樹枝に基礎捨石を配してその上に土で固めた堤防を建設するオランダ築堤も採用された。彼らの指導のもとで木曽三川の治水事業(木曽三川分流工事)などが行われ、オランダ治水技術は長らく日本の近代治水の模範とされた。 オランダから移入された低水治水のみでは洪水被害を抑えるのが困難であることが次第に判明したため、1896年(明治29年)に制定された河川法は洪水時の河水を河道内に押しとどめ一刻も早く海へ流下させることを原則とし、水系一貫方式の治水を採用した。以後、河道を直線化し高い堤防をめぐらし(高水治水)放水路で河水を海へ流下しやすくする河川事業が主流となり、大河津分水の開削、新淀川放水路の建設、石狩川短絡事業といった大規模な河川治水事業が19世紀末 - 20世紀前期に相次いで実施された。昭和期に入ると、アメリカのテネシー川流域開発事業の影響を受けて河川総合開発事業に基づく多目的ダム・治水ダムの建設が始まった。 第二次世界大戦直後の10数年間はカスリーン台風などの大水害が立て続けに発生し国民経済に少なからぬ影響を与えたが、並行して行われてきた治水事業の効果によって1970年代以降大規模な水災害は著しく減少した。一方、大都市圏への過度な集中に伴う都市水害の増加が新たな治水の課題として浮上した。 1980年代頃から洪水防止に傾倒しすぎた河川づくりや自然環境に一定の負荷を与えるダム建設に対する批判的な意見が出され始め、1990年代からは近自然的な治水工法(多自然型川づくり)が導入されるとともに、ハード(構造物)だけに頼らない、避難方法などのソフト面での治水対策も重視されるようになり、こうした動きは2000年代の脱ダム宣言や八ッ場ダム建設中止でピークを迎えた。だが2010年代以降の日本では豪雨水害が多発し、日本の治水は新たな局面を迎えようとしている。
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