義和団の乱とその後
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1900年に迷信的、復古主義の新興宗教団体義和団に因る義和団の乱が発生。義和団は西太后時代に続いた飢饉に因って発生した流民や列強国へ割譲された経済特権に因り商業的な打撃を被った貧民平民が多かったが、義和団は特に「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲い、近代インフラである鉄道や電線、街灯等を破壊した。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ついにはドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたという。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝が寵愛していた珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる旨の殺害を命じた。 義和団の乱の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。 義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に、諸所の配慮(中央に於ける立法権の未付与、責任内閣制の阻止)を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始した。1905年には5人の大臣を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させたが、李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また地方の名望家を政務に参与させ地方自治の基礎とする旨、責任内閣制の準備及び冗官整理を含めた新官制、併せて立憲の準備とする旨」の奏摺を無視、1906年に官制の変更のみを裁可(巡撫等との冗官の廃止統合と既に実施されていた地方官制の追認)し9年後の立憲制への移行を取り敢えず宣言する「預備立憲」上諭を下した。 1908年光緒帝を殺害した翌日、西太后も72歳で死んだ。西太后は死ぬ前に溥儀を宣統帝として擁立し、実務経験の乏しい溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后期の長きに渡って積み重なった積弊に因り死後3年で清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。
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