義和団の乱とその後とは? わかりやすく解説

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義和団の乱とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:01 UTC 版)

西太后」の記事における「義和団の乱とその後」の解説

1900年迷信的復古主義新興宗教団体義和団に因る義和団の乱発生義和団西太后時代続いた飢饉に因って発生した流民列強国割譲された経済特権に因り商業的な打撃被った貧民平民多かったが、義和団は特に「扶清滅洋」を標語掲げ当初国内にいる外国人キリスト教徒次々と襲い近代インフラである鉄道電線街灯等を破壊した清朝内には義和団支持し、この機会一気諸外国干渉排除しようとする主戦派と、義和団暴徒見做し外国との衝突避ける為討伐すべきという和平派激しく対立した義和団勢力拡大するに連れ暴徒化無差別な略奪繰り返すうになるが、清朝内部では次第主戦派が優勢となり野放しとなったついにはドイツ公使日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国居留民保護のため連合軍派遣義和団優勢見た西太后主戦派の意見賛同し諸外国に対して宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり恃むところはただ人心のみ」と述べたという。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后側近伴い北京脱出西安まで落ち延びたこの際光緒帝寵愛していた珍妃紫禁城内の井戸投げ捨てる旨の殺害命じた義和団の乱の処理を命じられ李鴻章慶親王奕劻は、諸外国多額賠償金北京への外国軍駐留認め代わりに清朝責任事件直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后責任追及されないようにした。そのため西太后1902年北京帰還しこれまで通り政治実権握り続けることができた。 義和団の乱終結以後遅まきながら民衆知識人の間に起こる政治改革機運高まり察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法基本に、諸所配慮中央に於ける立法権の未付与責任内閣制阻止)を加えたいわゆる光緒新政」を開始した1905年には5人の大臣日本欧米派遣し政治制度視察させたが、李鴻章五大臣の奏摺した「中央の上級官吏政務にも参与させ議院基礎とする旨、また地方名望家政務参与させ地方自治基礎とする旨、責任内閣制準備及び冗官整理含めた新官制、併せて立憲準備とする旨」の奏摺を無視1906年官制変更のみを裁可(巡撫等との冗官廃止統合と既に実施されていた地方官制追認)し9年後の立憲制への移行取り敢えず宣言する預備立憲上諭下した1908年光緒帝殺害した翌日西太后72歳死んだ西太后は死ぬ前に溥儀宣統帝として擁立し実務経験乏し溥儀の父醇親王摂政王に任命して政治実権委ねた。しかし、西太后期の長き渡って積み重なった積弊に因り死後3年清朝辛亥革命によって倒されてしまう。

※この「義和団の乱とその後」の解説は、「西太后」の解説の一部です。
「義和団の乱とその後」を含む「西太后」の記事については、「西太后」の概要を参照ください。

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