義和団の乱とロシアの満洲占領
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「義和団の乱とロシアの満洲占領」の解説
列強の中国分割に反発した山東省の農民たちは、1900年6月に「扶清滅洋」をスローガンに掲げる秘密結社義和団を結成し、20万人もの数で北京に押し寄せてきて、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラー(ドイツ語版)男爵を殺害した。義和団を味方につけて強気になった西太后は清朝皇帝光緒帝の名前で列強諸国に宣戦布告した。 真っ先に危険にさらされたのは北京・外国公使館街に駐在している外国人たちだった。彼らはキリスト教に改宗した中国人とともに公使館街にバリケードを築いて清軍や義和団の攻撃を防いだ。公使を殺害されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が真っ先に援軍を清に送り込むことを決定。ソールズベリー侯爵としても援軍を送らないわけにはいかなかったが、イギリス軍は目下ボーア戦争中であり、極東に割く余分は兵力はなかった。そのため日本に協力を要請し、日本政府はこれを快諾し、2万の兵を清に送り込んだ。日本軍とロシア軍を主力とする8か国連合軍は、8月に義和団や清軍を倒して、西太后や光緒帝を追って北京を占領し、外国公使街で立てこもっている人々を解放した。 しかしロシアはこの騒乱のドサクサに紛れて満洲を軍事占領した。これを警戒したソールズベリー侯爵は、1900年11月にドイツ帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵と揚子江協定(Yangtze Agreement)を締結した。清国の領土保全と英独の勢力下にある清国領土の門戸開放を約定したものだったが、ドイツは満洲についてこの協定を適用することを拒否し、ロシアとの対立を回避した。
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