第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月とは? わかりやすく解説

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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:19 UTC 版)

シール (サーモン級潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月」の解説

真珠湾攻撃から1週間経たない12月14日シール最初哨戒ルソン島沿岸部向かったシールビガンアパリ英語版の上部隊増援に向かう日本軍部隊迎え撃つため北に急行当初はボヘアドール岬灯台英語版)沖に向かいその後12月20日ビガン南方進路変える12月23日シール北緯1735東経12012分 / 北緯17.583度 東経120.200度 / 17.583; 120.200の地点陸軍船早隆丸(阿波国共同汽船、835トン)を撃沈した。早隆丸は1941年12月最後アメリカ軍によって沈められ日本であったビガン海域からシールリンガエン湾入り口移動し1942年1月入って再び北へ移動ルソン島北端経てラモン湾(英語版入り口哨戒する。1月9日にボヘアドール岬を回り10日にはエンガーニョ岬エンガノ岬)を通過11日モルッカ海峡南方進路取った1月20日にはセレベス島東岸部で敵交通線の破壊従事1月27日には、その3日前24日日本軍上陸したケンダリ沖を哨戒した。シールスラバヤオランダ海軍基地に入るよう指示された。2月5日シール53日間行動終えてスラバヤ帰投した。 スラバヤにおける連日空襲により、シール毎日のように潜航繰り返した潜航浮上繰り返しているうちに、シールエンジンは埃まみれになり、また潜望鏡プリズム調子おかしくなった。しかし、修理しようにも空襲がその妨げとなった2月11日シールジャワ島南岸部のチラチャップ(英語版)に移動のため出航2月14日到着し潜水母艦ホーランド (USS Holland, AS-3) に横付けした。シールがチラチャップに入港したのと同じ日に日本軍スマトラ島に、さらに2月19日にはバリ島それぞれ進撃連合軍艦隊バリ島方面日本艦隊交戦し空軍日本船団反撃試みた2月19日シール2回目の哨戒ジャワ海方面向かったロンボク海峡通過し2月24日には2つ輸送船団発見する船団対す攻撃貨物船1隻を撃破した判断された。翌25日シール南緯0642東経11720分 / 南緯6.700度 東経117.333度 / -6.700; 117.333の地点音源探知間もなく艦隊発見し攻撃試みたものの、頻繁に針路変えられ失敗した2月28日スラバヤ沖海戦戦った後の日本艦隊対し長い追跡を行う。名取軽巡洋艦と2隻の駆逐艦発見し夜に入ってから一度見失うも、日付3月1日変わってから再び発見し、「名取型」に対して4本、駆逐艦に対して2本の魚雷発射した命中せず失望させるけだったシール3月14日以降マカッサル南方移動し哨戒続けた。しかし、3月21日マカッサルとデ・ブリル・バンク間を哨戒中に空気系統の機器故障し冷却装置使用不能となった応急修理不能判断されシールは南に下った4月9日シール48日間行動終えてフリーマントル帰投した。

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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月

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スナッパー (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月」の解説

12月19日スナッパー最初哨戒香港および海南海峡方面向かった1942年1月8日まで最初哨戒海域にいたのち、南に下ってダバオ湾(英語版)に向かった1月12日スナッパー北緯1820東経12307分 / 北緯18.333度 東経123.117度 / 18.333; 123.117のエンガノ岬近海日本軍の補給に対して攻撃行ったものの失敗護衛駆逐艦による攻撃潜航余儀なくされた。1月24日スナッパーミンダナオ島サンアグスティン岬沖で別の補給艦に対して攻撃行ったものの失敗、再び護衛駆逐艦攻撃され潜航した2月1日スナッパーバンカ海峡英語版)に接近するとともに響型駆逐艦探知され爆雷攻撃受けたもののこれを回避したスナッパーは2本の魚雷反撃したが、2本とも命中しなかった。2月10日スナッパー53日間行動終えてジャワ島スラバヤ帰投続いてフリーマントル向かった3月6日スナッパー2回目の哨戒で、特別任務のためコレヒドール島向かったスナッパーはまずタラカン島向かい哨戒海域では目標発見することができず、ダバオ湾へ向かった3月31日北緯0643東経12544分 / 北緯6.717度 東経125.733度 / 6.717; 125.733の地点特設巡洋艦もしくは武装商船接近600ヤードの距離から2本の魚雷発射し、逆方向戻って潜望鏡深度から停止した敵艦観察した後部魚雷発射管から1本の魚雷発射した後、スナッパー護衛艦からの攻撃を受け潜航強いられたその日夜遅くマクタン島弾薬降ろして46トン食糧積み、この食糧を、包囲されコレヒドール島送り届けるよう命令を受ける。4月4日スナッパーコレヒドール島到着し、その積み荷潜水艦救難艦ピジョン (USS Pigeon, ASR-6) に移して27名の避難民乗せフリーマントル向かった途中日本駆逐艦発見し回避した4月23日夜、スナッパーは、シーレイヴン (USS Searaven, SS-196) にトラブル発生したので、コース戻って救助するよう命令を受ける。スナッパーはシーレイヴンを曳航してフリーマントル向かった4月25日スナッパー50日間行動終えてフリーマントル帰投その後、一旦オールバニ向かい、再びフリーマントル帰投した。艦長ハロルド・E・ベイカー少佐アナポリス1932年組)に代わった。

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