第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月
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「シール (サーモン級潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月」の解説
真珠湾攻撃から1週間も経たない12月14日、シールは最初の哨戒でルソン島沿岸部に向かった。シールはビガンとアパリ(英語版)の上陸部隊の増援に向かう日本軍部隊を迎え撃つため北に急行。当初はボヘアドール岬灯台(英語版)沖に向かい、その後12月20日にビガンの南方へ進路を変える。12月23日、シールは北緯17度35分 東経120度12分 / 北緯17.583度 東経120.200度 / 17.583; 120.200の地点で陸軍船早隆丸(阿波国共同汽船、835トン)を撃沈した。早隆丸は1941年12月最後のアメリカ軍によって沈められた日本船であった。ビガン海域からシールはリンガエン湾入り口へ移動し、1942年1月に入って再び北へ移動、ルソン島北端を経てラモン湾(英語版)入り口を哨戒する。1月9日にボヘアドール岬を回り、10日にはエンガーニョ岬(エンガノ岬)を通過、11日にモルッカ海峡南方へ進路を取った。1月20日にはセレベス島東岸部で敵交通線の破壊に従事。1月27日には、その3日前の24日に日本軍が上陸したケンダリ沖を哨戒した。シールはスラバヤのオランダ海軍基地に入るよう指示された。2月5日、シールは53日間の行動を終えてスラバヤに帰投した。 スラバヤにおける連日の空襲により、シールは毎日のように潜航を繰り返した。潜航と浮上を繰り返しているうちに、シールのエンジンは埃まみれになり、また潜望鏡のプリズムの調子がおかしくなった。しかし、修理しようにも空襲がその妨げとなった。2月11日、シールはジャワ島南岸部のチラチャップ(英語版)に移動のため出航。2月14日に到着し、潜水母艦ホーランド (USS Holland, AS-3) に横付けした。シールがチラチャップに入港したのと同じ日に日本軍はスマトラ島に、さらに2月19日にはバリ島にそれぞれ進撃。連合軍艦隊はバリ島方面の日本艦隊と交戦し、空軍は日本船団に反撃を試みた。 2月19日、シールは2回目の哨戒でジャワ海方面に向かった。ロンボク海峡を通過し、2月24日には2つの輸送船団を発見する。船団に対する攻撃で貨物船1隻を撃破したと判断された。翌25日、シールは南緯06度42分 東経117度20分 / 南緯6.700度 東経117.333度 / -6.700; 117.333の地点で音源を探知。間もなく艦隊を発見し攻撃を試みたものの、頻繁に針路を変えられて失敗した。2月28日、スラバヤ沖海戦を戦った後の日本艦隊に対し長い追跡を行う。名取型軽巡洋艦と2隻の駆逐艦を発見し、夜に入ってから一度見失うも、日付が3月1日に変わってから再び発見し、「名取型」に対して4本、駆逐艦に対して2本の魚雷を発射したが命中せず、失望させるだけだった。シールは3月14日以降はマカッサル南方に移動し、哨戒を続けた。しかし、3月21日にマカッサルとデ・ブリル・バンク間を哨戒中に空気系統の機器が故障し、冷却装置が使用不能となった。応急修理は不能と判断され、シールは南に下った。4月9日、シールは48日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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「スナッパー (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年4月」の解説
12月19日、スナッパーは最初の哨戒で香港および海南海峡方面に向かった。1942年1月8日まで最初の哨戒海域にいたのち、南に下ってダバオ湾(英語版)に向かった。1月12日にスナッパーは北緯18度20分 東経123度07分 / 北緯18.333度 東経123.117度 / 18.333; 123.117のエンガノ岬近海で日本軍の補給艦に対して攻撃を行ったものの失敗、護衛の駆逐艦による攻撃で潜航を余儀なくされた。1月24日、スナッパーはミンダナオ島サンアグスティン岬沖で別の補給艦に対して攻撃を行ったものの失敗、再び護衛の駆逐艦に攻撃され潜航した。2月1日、スナッパーはバンカ海峡(英語版)に接近するとともに響型駆逐艦に探知され、爆雷攻撃を受けたもののこれを回避した。スナッパーは2本の魚雷で反撃したが、2本とも命中しなかった。2月10日、スナッパーは53日間の行動を終えてジャワ島のスラバヤに帰投。続いてフリーマントルへ向かった。 3月6日、スナッパーは2回目の哨戒で、特別任務のためコレヒドール島に向かった。スナッパーはまずタラカン島へ向かい、哨戒海域では目標を発見することができず、ダバオ湾へ向かった。3月31日に北緯06度43分 東経125度44分 / 北緯6.717度 東経125.733度 / 6.717; 125.733の地点で特設巡洋艦もしくは武装商船に接近。600ヤードの距離から2本の魚雷を発射し、逆方向に戻って潜望鏡深度から停止した敵艦を観察した。後部魚雷発射管から1本の魚雷を発射した後、スナッパーは護衛艦からの攻撃を受け潜航を強いられた。その日の夜遅く、マクタン島で弾薬を降ろして46トンの食糧を積み、この食糧を、包囲されたコレヒドール島へ送り届けるよう命令を受ける。4月4日、スナッパーはコレヒドール島に到着し、その積み荷を潜水艦救難艦ピジョン (USS Pigeon, ASR-6) に移して27名の避難民を乗せフリーマントルに向かった。途中、日本の駆逐艦を発見し回避した。4月23日夜、スナッパーは、シーレイヴン (USS Searaven, SS-196) にトラブルが発生したので、コースを戻って救助するよう命令を受ける。スナッパーはシーレイヴンを曳航してフリーマントルに向かった。4月25日、スナッパーは50日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。その後、一旦オールバニに向かい、再びフリーマントルに帰投した。艦長がハロルド・E・ベイカー少佐(アナポリス1932年組)に代わった。
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