第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年2月
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「スティングレイ (潜水艦)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年2月」の解説
12月11日、スティングレイは最初の哨戒でルソン島西部に向かった。リンガエン湾を哨戒し、スティングレイは日本軍の侵攻を目撃するが、弾薬等の不足により攻撃を行うことはできなかった。12月24日、スティングレイは13日間の行動を終えてマニラに帰投。この頃、マニラは陥落を目前にしていたが、スティングレイは簡単な修理をしてもらえた。艦長がレイモンド・J・ムーア少佐(アナポリス1927年組)に代わった。 12月30日、スティングレイは2回目の哨戒で海南島およびインドシナ半島方面に向かった。1942年1月10日、スティングレイは北緯17度40分 東経109度20分 / 北緯17.667度 東経109.333度 / 17.667; 109.333のサマ湾で病院船はるぴん丸(日本海汽船、5,167トン)を撃沈。これがスティングレイの戦争における最初の戦果であった。はるぴん丸は病院船とは言うものの、実際にはジュネーブ条約規定の装備をしていなかった。その後、2月8日までダバオ湾(英語版)を哨戒したが、敵との接触はなかった。2月12日、スティングレイは44日間の行動を終えてジャワ島のスラバヤに帰投した。日本軍はオランダ軍基地に圧力をかけ続けていたため、スティングレイはすぐにフリーマントルへ向けて航行、3月3日に到着した。
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第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年2月
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「スカルピン (SS-191)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年2月」の解説
1941年12月8日、スカルピンは最初の哨戒でシーウルフ (USS Seawolf, SS-197) とともにルソン島近海に向かった。カヴィテを出航後、水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) および給油艦ペコス (USS Pecos, AO-6) を護衛してサンベルナルジノ海峡を通過した。ラングレー、ペコスと分離後、12月10日にラモン湾(英語版)の担当海域に到着した。しかし、天候が良くなかったので哨戒海域をアパリ(英語版)近海に変更し、12月21日に到着した。その3日後、日本軍の部隊がラモン湾に進攻した。アパリ沖では目標を発見したものの、よい攻撃態勢を取れなかった。スカルピンは同じ海域で哨戒していたターポン (USS Tarpon, SS-175) と会合し、ターポンにラモン湾へ向かうよう指示を出した。哨戒中にマニラは陥落。1月22日、スカルピンは45日間の行動を終えてジャワ島のスラバヤに帰投した。 1月30日、スカルピンは2回目の哨戒でモルッカ海、セレベス島方面に向かった。この頃、日本軍はマカッサルを攻略すべく、ケンダリに部隊を集結させつつあった。2月4日、スカルピンはケンダリ南方、スターリング湾沖で哨戒中の駆逐艦涼風に対して魚雷3本を発射し、うち1本が涼風の右舷前方に命中し損傷を与えた。そのうちにマカッサルに向かう攻略部隊が行動を開始し、スカルピンは3日後の2月7日にこれを迎撃。駆逐艦へ接近し雷撃したが、接近を察知され潜航。6隻の駆逐艦による4時間にも及ぶ激しい爆雷攻撃を回避したあと浮上、スカルピンは駆逐艦満潮の追撃を振り切って戦場を離脱した。2月17日の晩には浮上して攻撃を行おうとしたところを察知され潜航、爆雷攻撃を受け、右舷の主制御器および右舷の推進軸を損傷した。2月28日、スカルピンは29日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。南西潜水艦部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド少将(アナポリス1912年組)の指揮下に入った。
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