第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年1月
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「ピカーレル (SS-177)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年1月」の解説
12月8日の日本軍による真珠湾攻撃後、ピカーレルは艦長バートン・E・ベーコン・ジュニア中佐(アナポリス1925年組)の指揮下、最初の哨戒でインドシナ半島沿岸部に向かった。18時にマニラを出撃し、12月12日にインドシナ半島ヴァレラ岬に到達。カムラン湾、ダナン方面で哨戒を開始した。12月14日、ピカーレルは艦橋に日本の国旗を描き入れた潜水艦、やや遅れた時間に2隻の駆逐艦をそれぞれ発見して追跡したが、魚雷の射程内に捉える前に悪天候のため見失った。12月19日、ピカーレルは日本軍の小型警備艇と接触するが、攻撃を行う前に見失った。12月29日、ピカーレルは21日間の行動を終えてマリベレス(英語版)に帰投した。 12月31日、ピカーレルは2回目の哨戒でマニラとスラバヤの間およびセレベス海方面に向かった。タヤバス湾(英語版)、ボホール海を通過し、期間の前半はサンボアンガ近海で哨戒を行った。1942年1月10日、ピカーレルは北緯06度12分 東経125度55分 / 北緯6.200度 東経125.917度 / 6.200; 125.917の地点で特設砲艦咸興丸(大阪商船、2,929トン)を撃沈した。1月15日にはタラカン島近海で2隻の駆逐艦に護衛された4隻の輸送船を発見したが、攻撃はしなかった。哨戒期間中の1月2日にマニラは陥落し、ピカーレルはスラバヤに向かった。その途中の1月23日、ピカーレルは26隻の輸送船と14隻の駆逐艦からなると推定された大輸送船団を発見。攻撃するために接近したものの、爆雷攻撃を受けて退却した。1月29日、ピカーレルは30日間の行動を終えてスラバヤに帰投した。
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