第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年7月
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「プランジャー (SS-179)」の記事における「第1、第2の哨戒 1941年12月 - 1942年7月」の解説
12月14日、プランジャーは最初の哨戒でガジョン (USS Gudgeon, SS-211) およびポラック (USS Pollack, SS-180) とともに日本近海に向かった。この3隻は、2つの重要な新兵器を搭載していた。それは、マーク14型魚雷に取り付けられた磁気爆発突、もう一つは初期型のSDレーダーであった。プランジャーは紀伊水道周辺を哨戒し、1942年1月18日には潮岬近海で貨物船栄山丸(興国汽船、4,702トン)を撃沈した。2月4日、プランジャーは52日間の行動を終えて帰投した。 このあと、プランジャーは事故に遭遇する。1942年2月17日、真珠湾でドック入りして整備中の際、船体を支えていたブロックが崩れてプランジャーは右舷側に倒れた。船体が岸壁に引っかかったため完全な横転は避けられたが、事故により次回の哨戒まで間が開くこととなった。 プランジャーは6月5日のミッドウェー海戦に参加し、ミッドウェー島とハワイの中間海域の哨戒で15日間行動した。海戦後の6月9日、プランジャーは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。主に上海沖を哨戒。この哨戒中、プランジャーはイタリア船籍の客船コンテ・ヴェルデ(英語版) (SS Conte Verde 18,765トン) に遭遇した。この船は交換船であり、本国に引き揚げるジョセフ・グルー大使を含むアメリカ外交団が乗船していた。これより先の6月5日に、太平洋艦隊潜水部隊司令官ロバート・H・イングリッシュ少将は、交換船コンテ・ヴェルデおよび浅間丸(日本郵船、16,975トン)に関する情報を哨戒中の潜水艦に通知した。6月25日に浅間丸が出航したのを受けて、イングリッシュ少将は改めて交換船に関する情報を送信した。しかし、プランジャーのホワイトはこの情報をこの時点では受信しなかったが、6月26日と28日に至って、重ねて送信された交換船情報が届いた。2日後の6月30日朝7時、プランジャーは北緯30度08分 東経123度16分 / 北緯30.133度 東経123.267度 / 30.133; 123.267の地点で、規定どおりの塗装と照明をしているコンテ・ヴェルデに800ヤードまで接近し、コンテ・ヴェルデの写真を撮影して攻撃はしなかった。プランジャーは、もう少しで後年のクイーンフィッシュの失態に先んじる失態を演じるところであった。コンテ・ヴェルデ撮影より先、プランジャーは貨物船に対して浮上攻撃を行う。アメリカ側の記録では、この攻撃によりプランジャーは海軍徴傭船第五雲海丸(中村汽船、2,841トン)を撃沈したとするが、同船は1944年11月14日にレイトン (USS Raton, SS-270) が撃沈している。7月2日には、プランジャーは北緯30度19分 東経123度27分 / 北緯30.317度 東経123.450度 / 30.317; 123.450の長江河口付近で第131船団を攻撃し、船団から遅れていた陸軍徴傭船第三雲洋丸(中村汽船、2,977トン)を撃沈した。7月15日、プランジャーは36日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。真珠湾に回航されて改修を受けた。
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