浜尾四郎と横溝正史
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検事だった浜尾を文筆家として『新青年』に引っ張り出したのは、当時編集部にいた横溝正史だった。きっかけは、小酒井不木が手紙で横溝に「浜尾がひじょうな秀才で、かつて帝大の総長だった浜尾新の養嗣子で、子爵にして検事で、しかも探偵小説について深い造詣と関心をもっている」として、「何か氏に書いていただいたらどうか」と教示してきたことからだった。 横溝は浜尾の作品は未読だったが、当時は「探偵小説」といえば一般から侮蔑の目で見られていた時代で、そういう時代だからこそ、浜尾のような肩書きを持った現職の検事を探偵小説壇に引っ張り込むということが、探偵小説に対する一般の認識を高めるために有効なのではないかと考え、1927年(昭和2年)から1929年(昭和3年)ごろのある冬の夜に、さっそく原稿依頼に牛込の高級住宅街にあった浜尾の邸宅を訪ねた。横溝は浜尾について、子爵や検事という肩書から、いかめしい尊大な人物を想像してひそかに懼れていたが、そこに出てきたのは「鶴のごとき痩身をいたって無造作な和服の着流しにつつんだ、尊大とはおよそ正反対のいたって愛想の良い紳士」で、「とかくひとみしりをしがち」という横溝もすぐくつろいだ気持になり、小一時間も話し込み、「これほど座談のお上手なひとも珍しいのではないか」と思ったという。 横溝はその時、浜尾から一事不再理についてのトリックをいくつか教示してもらった。横溝は感心したが、深い法律的造詣が必要と思い、浜尾にこのトリックを使って作品を書くよう勧めた。横溝は「のちにクリスチーの『スタイルズの怪事件』に、そのトリックがうまく使われているのを読んで、いまさらのように浜尾さんの探偵小説的センスに敬服したものであった」と語っている。このときの依頼で浜尾が書いたのは『落語における探偵趣味』というふうな随筆だった。 横溝が浜尾と直接会ったのはそれきりで、他の雑誌に移ったため、それ以上親しくするチャンスを失った。「のちに、たとえ時期をへだててもおなじ本格探偵小説に肝胆を砕くようになったふたりなのだから、もっと深く謦咳に接しておくべきだったと、いまにして思えば残念でならない」と浜尾を偲んでいる。 この初対面時に、浜尾は横溝に、小冊子大の和綴じの春本を見せた。それは多数の男たちの一人の女に対する集団強姦を描いた「世にもえげつない場面の連続」で、筆致からすぐ責めの研究家として有名な某画伯を連想したが、「エロを通りこしてグロもよいところ」で、当時20代の横溝も「春情をそそられるどころか、腹の底が固くなるようなグロ・シーンの連続だった」という。実はこれは検事である浜尾が事件で押収した物件で、『新青年』から若い記者が来るからと、反応を試そうとわざわざ持ち帰っていたものだった。横溝が「腹の底をかたくしながら、負けおしみもてつだって最後まで見おわると」、「いたずらっけの強い検事先生」はその小冊子を取り上げ、「ひどいですね」と言いながら、「まるでやさしいメフィストフェレスみたいな顔をして、にこにこと笑ったものである」という。
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