えいきょう‐の‐らん〔エイキヤウ‐〕【永享の乱】
永享の乱
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永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。
注釈
出典
- ^ 黒田 2013, 黒田基樹「関東管領上杉氏の研究」.
- ^ 黒田 2013, 植田真平「山内上杉氏と越後上杉氏」.
- ^ 呉座勇一「永享九年の〈大乱〉-関東永享の乱の始期をめぐって-」『鎌倉』115号、2013年。/所収:植田 2016
- ^ 菅原正子 著「上杉憲実の実像と室町軍記-『鎌倉大草紙』『永享記』をめぐって-」、民衆史研究会 編『民衆史研究の視点』三一書房、1997年。/所収:黒田 2013
- ^ 内山俊身「鳥名木文書に見る室町期東国の政治状況―永享の乱・結城合戦時の霞ヶ浦周辺と足利万寿王丸の鎌倉公方復権運動について」『茨城県立歴史館報』31号、2004年。/所収:長塚孝 編『足利成氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻〉、2022年、82-94頁。ISBN 978-4-86403-421-0。
永享の乱
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永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。なお、『喜連川判鑑』では元服式はわざわざ源義家の先例を調べて行われたもので、憲実はこの命名に反対したが無視されたとする。持氏は義久を源義家に擬して「八幡太郎」の通称を称させて、鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げた。憲実はこの元服式に出席せず、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は一色直兼に命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。 将軍・義教は憲実の救援のため、篠川公方足利満直(上杉禅秀の乱後持氏と対立)や駿河守護今川範忠の出兵を命じた。さらに禅秀の子上杉持房・教朝らを含む6万の軍勢を派遣する。同時に持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。9月27日には持氏軍は敗れて相模の海老名まで引いたが、鎌倉を守護していた三浦時高等武将の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。 持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)と出会い、憲実に義教との折衝を依頼する。その後鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた(永享の乱)。義久と稲村公方足利満貞も自害した。 持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、永享12年(1440年)3月に彼の遺児である春王丸・安王丸を担いだ結城氏朝・持朝父子が蜂起し、関東の混乱は続いた(結城合戦)。この反乱も幕府に鎮圧され結城氏朝父子は自害、春王丸・安王丸は幕府に捕らえられ処刑されたが、後に春王丸らの兄弟で生き残っていた成氏が鎌倉に帰還、鎌倉公方に就任するも上杉氏と対立、享徳の乱を引き起こし北関東へ逃れ古河公方を称することになる。
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永享の乱
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それから、幕府と鎌倉公方との間で永享の乱が起こる。持氏は敗れ自殺したため義憲は隠居し、義従に家督を譲った。
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永享の乱
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「永享の乱」も参照 道秀は、永享10 年(1438年)9月27日に早川尻の戦い(永享の乱)において上杉憲直に従い鎌倉公方足利持氏方について戦死したとされ、永享記に記されている。 かゝりけれとも続く味方もなし。只今を限と戦けれとも目に余る程の大勢なれは、憲直の頼切たる肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足立萩〔ママ〕窪を初として一族若党悉く討死し、憲直海老名終に討負て散々に成て落行けり 現代文:攻めこんだが続いてくる味方はない。ただ、今が最期のときと戦ったが、敵は目に余るほどの大軍だったので、憲直が頼りにしていた肥田勘解由左衛門、蒲田弥次郎、足立、荻窪を初めとする一族・若党もことごとく討死し、憲直と海老名は結局戦いに敗れて、散りじりになって落ちて行った。
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