永享の乱とは? わかりやすく解説

えいきょう‐の‐らん〔エイキヤウ‐〕【永享の乱】


永享の乱

読み方:エイキョウノラン(eikyounoran)

室町時代東国内乱


永享の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 13:47 UTC 版)

永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。第4代鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。


注釈

  1. ^ 軍記などには上野での戦いの記録は無いものの、『小笠原文書』には、9月24日に足利義教から小笠原政康に(上野にいる)憲実救援を督促する御内書及び10月1日に細川持之から戦勝を慰労するとともにすぐに(信濃へ)帰国する事の無いようにと指示する内容の奉書が残されており、後者の文書は10月10日に板鼻の政康の元に着いたことが注記した付箋が残されている[4]
  2. ^ 一説には永享10年の上杉持朝らの鎌倉大蔵谷侵攻の際に鎌倉にいた義久は自害したとも(『喜連川判鑑』)。

出典

  1. ^ 黒田 2013, 黒田基樹「関東管領上杉氏の研究」.
  2. ^ 黒田 2013, 植田真平「山内上杉氏と越後上杉氏」.
  3. ^ 呉座勇一「永享九年の〈大乱〉-関東永享の乱の始期をめぐって-」『鎌倉』115号、2013年。 /所収:植田 2016
  4. ^ 菅原正子 著「上杉憲実の実像と室町軍記-『鎌倉大草紙』『永享記』をめぐって-」、民衆史研究会 編『民衆史研究の視点』三一書房、1997年。 /所収:黒田 2013
  5. ^ 内山俊身「鳥名木文書に見る室町期東国の政治状況―永享の乱・結城合戦時の霞ヶ浦周辺と足利万寿王丸の鎌倉公方復権運動について」『茨城県立歴史館報』31号、2004年。 /所収:長塚孝 編『足利成氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻〉、2022年、82-94頁。ISBN 978-4-86403-421-0 


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永享の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:07 UTC 版)

足利持氏」の記事における「永享の乱」の解説

永享10年1438年6月、持氏の嫡子王丸元服迎えて名を改める際、本来ならば将軍一字拝領する慣例であったが、それを行わず義久」と名付けた。なお、『喜連川判鑑』では元服式はわざわざ源義家先例調べて行われたもので、憲実はこの命名反対したが無視されたとする。持氏は義久源義家擬して八幡太郎」の通称を称させて、鶴岡八幡宮にて元服の式を挙げた。憲実はこの元服式に出席せず、憲実と持氏の対立決定的となった8月、憲実は鎌倉去り領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆見た持氏は一色直兼命じて討伐軍を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺出陣する。 将軍義教は憲実の救援のため、篠川公方足利満直上杉禅秀の乱後持氏と対立)や駿河守今川範忠出兵命じた。さらに禅秀の子上杉持房・教朝らを含む6軍勢派遣する同時に持氏追討治罰綸旨発給求め、持氏は朝敵となった9月27日には持氏軍は敗れて相模海老名まで引いたが、鎌倉守護していた三浦時高武将の裏切りが相次いだために兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。 持氏は鎌倉に引く途中で実の家宰長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)と出会い、憲実に義教との折衝依頼するその後鎌倉称名寺出家し永安寺幽閉された。憲実は持氏の助命義久公方就任懇願したが、義教許さず、憲実に持氏の追討命じた永享11年1439年2月10日、憲実の兵が永安寺攻撃、持氏は自害し果てた(永享の乱)。義久稲村公方足利満貞自害した。 持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、永享12年1440年3月彼の遺児である春王丸安王丸を担いだ結城氏朝・持朝父子蜂起し関東混乱続いた結城合戦)。この反乱幕府鎮圧され結城氏朝父子自害、春王丸安王丸は幕府捕らえられ処刑されたが、後に春王丸らの兄弟生き残っていた成氏が鎌倉帰還鎌倉公方就任する上杉氏対立享徳の乱引き起こし北関東逃れ古河公方称することになる。

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永享の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 08:49 UTC 版)

佐竹の乱」の記事における「永享の乱」の解説

それから、幕府鎌倉公方との間で永享の乱が起こる。持氏は敗れ自殺したため義憲は隠居し、義従に家督譲った

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永享の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/31 01:33 UTC 版)

蒲田道秀」の記事における「永享の乱」の解説

「永享の乱」も参照 道秀は、永享10 年1438年9月27日早川尻の戦い(永享の乱)において上杉憲直従い鎌倉公方足利持氏方について戦死したとされ、永享記記されている。 かゝりけれとも続く味方もなし。只今を限と戦けれとも目に余る程の大勢なれは、憲直の頼切たる肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足立ママ〕窪を初として一族若党悉く討死し、憲直海老名終に討負て散々に成て落行け現代文攻めこんだが続いてくる味方はない。ただ、今が最期のときと戦ったが、敵は目に余るほどの大軍だったので、憲直が頼りにしていた肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足立荻窪初めとする一族若党ことごとく討死し、憲直と海老名結局戦い敗れて散りじりになって落ちて行った

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