毛利宗家を支え、信頼を得る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:46 UTC 版)
「安芸福原氏」の記事における「毛利宗家を支え、信頼を得る」の解説
応永6年(1399年)、足利義満の挑発に乗り、大内義弘が反乱を起こして敗死する騒乱が起きた(応永の乱)。この後、周防国・長門国を巡って、大内弘茂と大内盛見との争いが起きた。足利義満は毛利氏の惣領であった毛利光房が少年であったこともあり、福原広世を毛利氏の惣領に任じて、大内弘茂を支援するように下命した。 毛利光房の成人後は惣領の座を光房に譲り、その側近として毛利氏を支えた。広世の嫡男福原朝広は毛利宗家と一族の庶家が対立した際に、光房留守の吉田郡山城に籠る小法師丸を保護し、庶家一族の攻撃を防いだ。 福原氏は他の庶家と毛利宗家との対立の中で、終始毛利宗家に協力し、絶対の信頼関係を築くことに成功した。そのため、朝広の子、福原広俊の娘が毛利弘元の正妻となり、毛利氏当主となる毛利興元や毛利元就を産んだ。当主の外戚として福原広俊は毛利氏を支えて、興元、元就を支えた。 広俊の後は貞俊、そして福原広俊と続く。福原広俊は、毛利幸松丸死去後の大永3年(1523年)7月、毛利元就に宗家の家督相続を要請した宿老十五人の連署状等起請文の筆頭に署名している。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは居城の鈴尾城を守備した。 その子福原貞俊は、引き続き重臣として活動し、天文19年(1550年)に毛利元就が井上元兼ら井上一族を粛清した直後の、毛利宗家への忠誠を誓う起請文でも筆頭に署名している。福原貞俊は吉川元春・小早川隆景らとともに政権の中枢にあって、中国の雄となりつつあった毛利氏を支えた。 永禄10年(1567年)以降、吉川元春、小早川隆景、口羽通良の4人で最高決定機関を作り、毛利両川とともに毛利家の首脳部を構成して、若年の毛利輝元を補佐した。 貞俊の後は嫡男の福原元俊が継ぎ、その子広俊も父祖に劣らぬ信頼を得て毛利輝元に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、吉川広家とともに、西軍に味方した毛利輝元を諌めた。 関ヶ原での敗戦により、毛利氏は防長両国に押し込められることとなった。福原広俊は加判役となり、萩藩初期の混乱期を乗り切った。元和8年(1622年)嫡子の元俊に家督を譲って隠居した。以後、福原氏は萩藩の重臣として、毛利氏の準一門として活動し、庶流は長府藩士となって幕末には多くの志士を輩出した。 福原俊丸の代の1900年(明治33年)5月9日に男爵に叙される。俊丸は実業家として活躍した後、貴族院議員を務めた。福原男爵家の邸宅は東京市杉並区阿佐谷にあった。
※この「毛利宗家を支え、信頼を得る」の解説は、「安芸福原氏」の解説の一部です。
「毛利宗家を支え、信頼を得る」を含む「安芸福原氏」の記事については、「安芸福原氏」の概要を参照ください。
- 毛利宗家を支え、信頼を得るのページへのリンク