毛利家臣となり、関ヶ原後に長府藩士となる
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「三沢為虎」の記事における「毛利家臣となり、関ヶ原後に長府藩士となる」の解説
豊臣秀吉の天下となると、毛利氏は積極的に領内の再編成を進めた。出雲国内も例に漏れず、多くの国人衆が所領を転封され、家臣団の再編成と在地性脱却が図られた。三沢氏と同じ出雲国の有力国人であった三刀屋久扶は徳川家康への面会を理由に、所領を没収されて追放された。三沢為虎も天正17年(1589年)に毛利輝元に安芸国へ呼び出され、そのまま監禁状態に置かれた。三沢は没収されたものの、その有能さと毛利一門宍戸元続の娘を妻としていたこともあり、長門国厚狭郡に1万石を与えられ、そこへと移住した。 その後も毛利氏家臣として、引き続き輝元に仕え、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐にも従軍。伊豆国下田城攻めでは同僚の吉見広頼、益田元祥、山内広通らと武功を挙げ、下田城を開城させた。また、文禄・慶長の役でも出陣して、朝鮮へと侵攻した。慶長2年(1597年)から翌年にかけての蔚山城の戦いでも、戦功を挙げた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、安濃津城の戦いや大津城の戦い、関ヶ原本戦にも出陣せず、長門国の要衝であった赤間関の守備についた。結局、毛利氏は戦いに敗れ、中国地方120万石の大大名から防長2ヶ国36万石に減封された。三沢為虎は、新たに立藩した長府藩藩主毛利秀元の家老となり2,700石の所領を知行された。 没年不詳。墓所は山口県小野田市大休1867 覚天寺。戒名は覚天寺殿雲叟覚天大居士。
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