下田城
下田城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)
下田城攻撃軍の編成 約20,000人軍船1,000隻(水軍 (羽柴秀長、宇喜多秀家、長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆、菅達長、来島通総)、毛利水軍(安国寺恵瓊・吉見広頼・三沢為虎・熊谷元直・益田元祥・山内広通など)、徳川水軍(小浜景隆、向井正綱、本多重次など)) 下田城守備軍の編成 約600人(城主 清水康英、清水政勝。援将 江戸朝忠、吉良氏広、梶原景宗) 伊豆半島南部に位置し、北条水軍の根拠地であった下田城は、北条氏直から全任を受けた清水康英が守備した。西伊豆の諸城から兵と船を引き上げ、防衛ラインとして下田城に全てを集中させた。この用意は前年度中から既に始まっており、梶原景宗などが合流して兵2800にて防備する予定であったが、梶原ら主力は小田原城の海上防衛に当るために引き揚げた。一説には清水と梶原による主導権争いにより、梶原が兵を引き連れて去り、これを小田原も容認した、とも伝わる。 大型の安宅船などを動員し、手薄であった西伊豆を3月以降の瞬く間に支配下に置いた豊臣方は、4月1日に下田城攻めを開始した。西伊豆から上陸した部隊は陸路からも城に迫った。この上陸部隊と交戦し、3月25日に岩殿寺城で清水英吉(康英弟)が戦死している。加藤嘉明らは下田港に上陸し、街を焼いて出丸を占拠した。4月1日に徳川勢の本多重次・向井正綱らが安良里砦・田子砦を落とした。3月29日の山中城の落城により進軍速度が速まったこともあり、秀吉からは「水軍を速やかに小田原沖に展開し海上封鎖するように」との命が下った。攻城側は長宗我部元親ら2500を残し、主力の羽柴秀長、宇喜多秀家などの残りの将兵は東伊豆を北上した。 清水康英は総兵600余で約20日に渡って籠城抵抗した。長宗我部軍は海上から大砲を打ち込み、北条方に損害を与えた。4月7日には江戸朝忠の叔父の江戸満頼が戦死した。4月23日、脇坂安治と安国寺恵瓊が降伏を勧告し、康英は起請文を交わし開城した。康英は河津の林際寺に退去した。後北条氏配下の伊豆水軍の、最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、他の伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上封鎖に加わった。先に山中城落城から脱した蔭山氏広は居城の河津城に帰還していたが、子の蔭山貞広らと共に戦わずに開城した。以後は修善寺付近で蟄居した。
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