歴史的な記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 05:57 UTC 版)
他の多くの手話言語同様、日本手話もまた文字を持たない無文字言語である。動画によって手話表現を記録できるようになったのが近年になってからであることもあいまって、日本手話に関する最古の記録を見出すことは現実的に難しい。 現在確認できる最も古い日本手話(の原型)の記録とされているのは、古河太四郎が1878年に開設した京都盲唖院に関するものである。そこでの教育は「それまで古河が実践してきた自然的身振りをもとにした手勢法(手真似)で行われ」とあり、創立時の31名のろう生徒のコミュニティで、少なくとも日本手話の原型と言えるコミュニケーション方法が用いられていたことがうかがえる。 ただし、それ以前にろう者(聾唖者)の存在をうかがわせる記述や絵画資料から、手話がさらに古い時代に使われていた可能性も指摘されている。 その後、1923年の聾唖学校令以降に手話を使わない口話法が普及し、日本手話の「苦難の歴史が始まった」。他の言語と同じような多様性(地域・世代に関連するものや言語接触の影響と思われるもの)を見せながら、140年以上たった現在も、日本手話はろう者のコミュニティで維持されている。 台湾手話は日本手話から大きな影響を受けているが、他の手話からの影響も同時にあり、独自の発展を見せている。韓国手話についても同様の経緯があるが、日本手話の影響がどの程度あったかは不明であるとされている。日本による統治(日本統治時代の朝鮮、日本統治時代の台湾)の影響であると考えられている。これを支持する学者はこれらは同じ「日本手話語族」であると主張している。
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歴史的な記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:16 UTC 版)
最初にイベリア人について言及したのは、古代ギリシャの歴史学者・地理学者たちである。興味深いことに、彼らは現在のグルジア南部の先住民をもイベリア人(コーカサス・イベリア人(英語版))と呼んでいた。最初、ギリシャ人たちはイベリアという名称を地中海西部沿岸を意味するものとして用いていた。続いて、イベリアは、半島全体を指す名称となった。イベリアとは半島で暮らす人々全てを指すようになったのである。 地中海西部沿岸のイベリア人に関する最古の記述は、4世紀の著述家アウィエヌス(英語版)の『オラ・マリティマ(スペイン語版)』で、紀元前530年頃にマルセイユからやってきた船乗りの話に登場する。 記述者たちのほとんどが、川の名前から人々をまさにイベリア人と名づけたと記録している。しかし川は反抗的なヴァスコン人たちの土地へは流れていない。川に面した町とその周辺地域全体が西にあり、イベリアと呼ばれていた。しかし、イベリアの東にはタルテッソス人とシルビセノス人(cilbicenos)の領域で占められていた。 アッピアノスも、イベリアの町と村について触れているが、この時代には消滅してしまっていた。彼が言及したのはかつてのアンダルシア西部についてである。ストラボンは彼以前の書物を基本としてイベリアについて記述を残した。彼はタルテッソスの子孫であるトゥルデタニア(スペイン語版)の諸都市に言及している。全体的に、プリニウスやその他ラテン語歴史家たちは、ローマ領ヒスパニア(スペイン語版)の先住民として、半島に住む人々に限定して軽く触れている。
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