武家による検断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 07:10 UTC 版)
前述のように、鎌倉幕府における検断実務の中核は侍所・守護・地頭である。侍所は鎌倉市中の警察及び広域あるいは全国的な刑事事件の裁判および御家人に関連した刑事裁判を担当した(なお、鎌倉市中の軽微な事件に関しては政所が裁判を行うこともあった)。守護は平安時代の追捕使の性格を引き継いで、前述のように担当する国内において発生した大番催促・謀叛・殺害、『御成敗式目』によって追加された夜討・強盗・山賊・海賊に関する追捕・裁判を行い、必要に応じて守護が派遣した使節が追捕を行った。ただし、前述のように本所一円領には検断権が及ばす、また同じ御家人(「自称」であるケースも含む)に対する検断には制約があり、追捕と事実審理のみを行って最終的な処分は侍所に委ねられた。もっとも、遠隔地である九州の守護に対しては御家人に対する刑事裁判と最終処分が全面的に認められ、鎌倉時代末期には尾張国・美濃国以西(九州を除く)の御家人の検断を担当する「検断方」が京都の六波羅探題に設置された。また、六波羅探題は大番役として上洛した大番衆や在京御家人を率いて治安維持活動を行うことも認められるようになった。一方、賭博や窃盗・放火など守護の検断権の範疇から外れる犯罪が荘園内で発生した場合には地頭が検断を行い、地頭が追捕したのが重科の場合には守護やその使節への引き渡しを行った(ただし、有力な地頭の中には地頭自身が守護不入権を持って、守護の検断権を自ら行うことが認められた者がいた。また、後述のように地頭以外の荘官も検断権を有していた)。とはいえ、依然として本所一円領など幕府の検断権が及ばない地域もあり、元寇やその後の悪党の社会問題化などをきっかけとして、幕府が本所一円領への検断権拡充を図ったが、本所側の抵抗と御家人の疲弊によって幕府滅亡時までその目標を達することは出来なかった。 室町幕府が成立すると、拠点が鎌倉から京都に移ったために、侍所は京都市中の警察を行うようになった。これに対して平安時代以来、京都の検断を担当していた朝廷の検非違使は組織そのものの形骸化もあってその権限を失っていき、室町幕府はその職掌を代行するようになっていった。一方、守護・地頭は鎌倉幕府の検断権を基本的には継承していったが、守護の検断対象に刈田狼藉が加えられたのが特徴的である。また、地域において力を伸ばしてきた国人及びその連合体である一揆も独自に検断権を行使するようになり、戦国時代になると、力を失った幕府や守護に代わって戦国大名や国人領主が検断権の主体となっていった。
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