最初の公刊と時代背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 03:36 UTC 版)
「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」の記事における「最初の公刊と時代背景」の解説
1595年にベネディクト会の修道士アルノルド・ヴィオンが、ヴェネツィアで刊行した著書『生命の木』(Lignum Vitae) に収録したのが、この予言の初めての公刊であった。信奉者寄りの著書では、バチカンの文書保存庫からヴィオンが見つけ出したとされることもあるが、ヴィオン自身は『生命の木』で「その予言を知ったが、まだ公刊されていないようだから収録した」という趣旨のごく簡単な説明しか行わず、詳細な出典については何ら触れていない。バチカン図書館側でも詳細な調査が行われたが、この予言についての記録はついに発見されなかったと指摘されている。 現在では、最初にこの予言が創られたのは1590年と考えられている。実際、『生命の木』では過去のものとなった標語にラテン語で「解説」がつけられているが、それはウルバヌス7世(在位1590年)までで止まっている。ヴィオンは解説の著者として、スペイン人のドミニコ会士アルフォンソ・チャコンの名を挙げているが、チャコン自身の書き物ではこの解説に触れているものが一切ないため、真偽は定かではない。 偽作の直接的な動機としては、ウルバヌス7世の次の教皇に当たる標語が『町の古さによって』(75番)となっていることから、オルヴィエート(「古い町」が語源とされる)の司祭だった枢機卿ジロラモ・シモンチェッリ(英語版)を教皇にしようとしたものではなかったかと考えられている。偽作者は特定されておらず、明確な根拠が示されているわけではないが、最初の紹介者であるヴィオン自身が偽作したわけではないだろうと見るのが一般的である。ヴィオンが示した原文が初出となっているが、彼が依拠したはずの写本は見付かっていないため、オリジナルに忠実かにも議論がある。1598年に出されたロベルト・ルスカの版(ラテン語の標語にイタリア語の解釈が付いている)はその内容からヴィオンをそのまま踏襲していないと判断する者もおり、その立場ではルスカもヴィオン以前の資料を参照しえたのではないかと指摘されている。また、題名についても、1624年にトマス・メシンガムが紹介した時には、マラキの肩書きが単に「大司教」ではなく、「アーマー大司教」「教皇特使」などとより詳しい形で書かれており、初期の版には揺れがあった。 さて、歴代教皇を順に予言するというスタイルは、16世紀にはおなじみのものだった。中世に出現した図像と文章を組み合わせた予言書『全ての教皇に関する預言』の亜流として、16世紀頃の歴代教皇を予言するといった体裁の偽書がいくつも出ており、マラキの予言以外に少なくとも9種が存在していた。なかでも、1589年(マラキの予言が偽作されたと考えられている前年)には、『大修道院長ヨアキムの予言』と称するピウス4世(在位1559年 - 1565年)以降の歴代教皇を予言するとした偽書も出現しており、これがマラキの予言のモデルになったという説もある。歴代教皇を対象とする偽予言は、シクストゥス5世(在位 1585年 - 1590年)の在位期間前後に多く出されていたことも知られている。 また、マラキの予言が偽作されたと考えられている1590年には、同じ教皇選挙に関連して『ウルバヌス7世の後継者に関する神々しきビルギッタの予言』 (Prophetia Divae Brigittae...in succesorem Urbani VII) など、ほかの予言者に仮託した偽書も刊行されていた。1590年のコンクラーヴェを対象とした偽予言群の存在は、スペイン国王フェリペ2世が教皇選挙に積極的に介入していた状況や、フランスでのカトリック同盟とアンリ4世の対立が激化していた状況など、1590年当時の諸状況に影響された政治的動機によって生み出された可能性も指摘されている。 ちなみに、このとき実際に選ばれた教皇はオルヴィエートのシモンチェッリではなく、元ミラノ大司教のグレゴリウス14世であった。しかし、信奉者たちは、『町の古さによって』がグレゴリウス14世を的中させていると主張してきた(解釈例は後述)。
※この「最初の公刊と時代背景」の解説は、「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」の解説の一部です。
「最初の公刊と時代背景」を含む「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」の記事については、「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」の概要を参照ください。
- 最初の公刊と時代背景のページへのリンク