曼殊院と北野天神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:50 UTC 版)
曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深かった。歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(管理責任者)を兼ねており、前述の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の初代別当になったという。是算の北野別当就任時期については、北野神社創建時・天暦元年(947年)とする説と、創建時ではなく、寛弘元年(1004年)、一条天皇の北野神社行幸時のこととする説がある。『華頂要略』所収の「諸門跡伝」は是算の没年を寛仁2年(1018年)としており、この没年からみて、それより70年以上前の天暦元年(947年)の北野別当就任は不自然だとする研究者もいる。 天仁年間(1108年 - 1110年)、是算から数えて8代目の門主・忠尋の時に、北野神社からさほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、寺号を「曼殊院」と改めた。別院を建設したのは北野神社の管理の便のためと思われる。比叡山にある本坊と北山の別院とはしばらくの間並立していたが、次第に北山の別院が主体となっていった。また、忠尋は東塔北谷にあった東陽坊を再興したと伝えられているが、観応元年(1350年)に当時の門跡である慈厳から朝廷(北朝)に出された奏状には是算を初代北野別当、東陽坊・北野別当の忠尋が曼殊院の祖であると記されており、当時の曼殊院が東陽坊を比叡山における本坊とみなしていたことが分かる。 だが、記録上に見える東陽坊(曼殊院)と北野別当の歴代には不一致が見られ、特に後者は有力門跡による争奪の対象になったと考えられている。再び、確実に一致するようになるのは鎌倉時代後期の正安3年(1301年)に訴訟によって北野別当の地位を得た慈順以降であり、彼とその弟子で実の姪孫でもあった慈厳が門跡寺院としての曼殊院を確立させたと考えられる。慈順は洞院家の出身で後宇多・伏見・花園の3代の天皇の外戚として大覚寺統・持明院統の双方に出入りし、慈厳も出家後の花園法皇・光厳法皇の師の1人であるとともに元弘の変で六波羅探題に一時拘束される程までに後醍醐天皇とも親密な関係で正平の一統の際には天台座主(天台宗最高の地位)に任じられている。慈厳の死後は甥の慈昭(洞院公賢の子)が継承し、北朝・室町幕府との関係を強めた。
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