明石藩舞子台場跡とは? わかりやすく解説

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明石藩舞子台場跡

名称: 明石藩舞子台場跡
ふりがな あかしはんまいこだいばあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 神戸市垂水区東舞子町
管理団体
指定年月日 2007.02.06(平成19.02.06)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 明石藩舞子台場跡は、幕末大坂湾防衛計画一環として瀬戸内海交通の要衝である明石海峡防備目的として、明石海峡本州側、舞子の地に築造された軍事施設一つである。文献史料には舞子砲台ともみえる。
 幕末開国求め欧米列強相次ぐ来航によって、江戸幕府海防強化余儀なくされた。幕府膝下江戸湾品川沖には台場築造され、大坂湾周辺においては日米和親条約締結され安政元年(1854)、露国プチャーチンディアナ号来航し開国要求したことから、安政2年幕府によって大坂湾防衛計画決められ周辺諸藩に対して台場築造大砲鋳造等の命令下された。既に嘉永6年(1853)に三箇所の台場築造していた明石藩は、この命令に基づき文久2年(1862)に9箇所台場築造したが、翌3年至り将軍徳川家茂巡見に先だって台場改築幕府から命じられ一万両の貸し付けを受け、台場造営することになった舞子台場は、徳島藩によって文久元年舞子対岸淡路島北端築かれ台場一対となって明石海峡防備を担うこととされた。
 台場造営は、文久3年開始、翌元治元年(1864)あるいは慶応元年1865)には台場工事完了したとされる台場縄張り構造について勝海舟現地指導受けた。ただ、砲台に伴う他の付帯施設構築されず、実際に大砲据え付けられずに、明治維新迎えたようである。台場は半星形稜堡式形態をとり、総石積よるものであった橋本海関明石名勝古事談によれば前面には砲門15設けられ背後5つ石製円形門等があったという。
 近年に至るまで舞子台場残存状況が悪いと考えられていたが、平成15年度に神戸市教育委員会実施した共同住宅開発に伴う発掘調査によって台場石垣確認したのを皮切りに継続的に調査した結果実際に台場遺構良好な保存状態であることが判明した台場は半星形稜堡式をとり、花崗岩用いた石垣であって復元幅(東西両翼最大長)は約70m、高さは残存する下層石垣だけでも約6mあり、築造当初の高さは約10mと推定される。海側の石垣角石主としてスダレ加工丁寧な表面加工施し石垣下部には土台木を据え基礎工事行っていることも確認された。
舞子台場跡は、幕末開国期の欧米列強軍事的緊張のなか明石海峡防備のため造営されたもので、当時我が国政治・軍事外交を知る上で欠くことのできない重要な遺跡あり、か遺構良好な状態で残っていることから、史跡指定して保護図ろうとするものである

明石藩舞子台場跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 14:06 UTC 版)

明石藩舞子台場跡(あかしはんまいこだいばあと)は、兵庫県神戸市垂水区舞子公園にある砲台跡。舞子砲台跡とも。国の史跡に指定されている。




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