日本触媒化学工業社長として
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「八谷泰造」の記事における「日本触媒化学工業社長として」の解説
1949年4月、八谷は2代目社長に就任し、同時に社名を日本触媒化学工業に名を改めるが、研究室ほかの増設による投資で資金繰りが厳しくなり万策尽きてしまう。 そこで、かつて八谷の会社に勤め八谷家に居候していた、将棋棋士の升田幸三に知恵を付けられ、同郷の実業家である永野重雄への出資依頼の直談判を決意した。永野は中央財界に確固たる地位を築きつつあった富士製鐵(現・新日本製鐵)の社長であった。1950年11月永野が広畑製鐵所に視察に行く情報を得た八谷は、山陽本線下り夜行急行「筑紫」に乗り込み、直談判を実行した。一介の町工場経営者にすぎない八谷であったが、一度も面識のない財界の巨頭・永野を相手に「重化学工業の発展こそが日本経済復興の推進力になる」と逃げられない汽車の中で自論を展開し、ついに1000万円の出資を承諾させた。 その後エリート中のエリートというべき、旧南満州鉄道の技術者を強引に入社させるなどで技術・研究部門は著しく向上。無水マレイン酸、アンスラキノン、ポリエステル樹脂などの製造プロセスを次々に開発し急成長を遂げた。朝鮮戦争による特需景気、その後の急激な景気の冷え込みなどで何度かの経営危機があったが、幾度となく永野らに助けられたり持ち前のバイタリティでそれを乗り越えた。八谷が予感した通り1950年代半ばから石油化学工業が勃興期を迎えた。旧財閥系の三井・三菱・住友はグループの総力を結集して石油化学計画を推進、各地でコンビナートの建設に着手した。 当時、石油化学工業は時代の最先端をゆくテクノロジーで、国産技術など論外、高い技術料を払ってでも外国から技術を導入するのが常識だった。しかし八谷は国産開発にこだわり合成繊維の原料となるエチレンオキシドを国産で初めて成功させ1959年、非財閥系として参入した日本石油化学グループの川崎市コンビナート事業に国産技術による参加を標榜、大勝負に打って出る。この事業に参加出来なければ財閥大手系の同業化学会社に大きく遅れをとる事となる。関東では会社の知名度はゼロで関係会社・関係自治体の説得に労を要したが、この時も川崎市長などに得意の直談判を繰り出し大規模払い下げ用地の確保に成功した。また1951年設立された日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)からも巨額融資の引き出しに成功、自社の資本金の二倍にもなる大工場を川崎市に建設。1960年開設した姫路工場などと合わせ会社は企業規模を飛躍的に向上させた。 その後、各地の化学工業を傘下に収め他部門にも進出。また開発した特許技術が国内やソ連など世界の化学メーカーに売れ会社の経営に大きく寄与した。「ナフタリン、ベンゼン、アントラセンの気相酸化技術の確立と工業化」で1958年度化学技術賞受賞。化学工業協会会長、関西経済連合会常任理事などの要職も務めたが、1966年頃から糖尿病を病み、海外出張などの激務からか、1970年に社長室で倒れ帰らぬ人となった。享年63。
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