日本触媒化学工業社長としてとは? わかりやすく解説

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日本触媒化学工業社長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:59 UTC 版)

八谷泰造」の記事における「日本触媒化学工業社長として」の解説

1949年4月八谷2代目社長に就任し同時に社名日本触媒化学工業に名を改めるが、研究室ほかの増設による投資資金繰り厳しくなり万策尽きてしまう。 そこで、かつて八谷会社勤め八谷家居候していた、将棋棋士升田幸三知恵付けられ同郷実業家である永野重雄への出資依頼直談判決意した永野中央財界確固たる地位築きつつあった富士製鐵(現・新日本製鐵)の社長であった1950年11月永野広畑製鐵所視察に行く情報得た八谷は、山陽本線下り夜行急行筑紫」に乗り込み直談判実行した一介町工場経営者にすぎない八谷であったが、一度面識のない財界巨頭永野相手に「重化学工業の発展こそが日本経済復興推進力になる」と逃げられない汽車の中で自論展開し、ついに1000万円の出資承諾させた。 その後エリート中のエリートというべき、旧南満州鉄道技術者強引に入社させるなどで技術・研究部門著しく向上。無水マレイン酸、アンスラキノン、ポリエステル樹脂などの製造プロセス次々開発し急成長遂げた朝鮮戦争による特需景気その後急激な景気冷え込みなどで何度かの経営危機があったが、幾度となく永野らに助けられたり持ち前バイタリティでそれを乗り越えた八谷予感した通り1950年代半ばから石油化学工業勃興期迎えた旧財閥系三井三菱住友グループ総力結集して石油化学計画推進各地コンビナート建設着手した当時石油化学工業時代最先端をゆくテクノロジーで、国産技術など論外、高い技術料を払ってでも外国から技術導入するのが常識だった。しかし八谷国産開発こだわり合成繊維原料となるエチレンオキシド国産初め成功させ1959年、非財閥系として参入した日本石油化学グループ川崎市コンビナート事業国産技術による参加標榜大勝負打って出る。この事業参加出来なければ財閥大手系の同業化学会社大きく遅れをとる事となる。関東では会社知名度ゼロ関係会社関係自治体説得労を要したが、この時も川崎市長などに得意の直談判繰り出し大規模払い下げ用地確保成功した。また1951年設立され日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)からも巨額融資引き出し成功自社資本金二倍にもなる大工場川崎市建設1960年開設した姫路工場などと合わせ会社企業規模飛躍的に向上させた。 その後各地化学工業傘下収め他部門にも進出。また開発した特許技術国内ソ連など世界化学メーカー売れ会社経営大きく寄与した。「ナフタリンベンゼンアントラセン気相酸化技術確立工業化」で1958年度化学技術賞受賞化学工業協会会長関西経済連合会常任理事などの要職務めたが、1966年頃から糖尿病病み海外出張などの激務からか、1970年社長室倒れ帰らぬ人となった享年63

※この「日本触媒化学工業社長として」の解説は、「八谷泰造」の解説の一部です。
「日本触媒化学工業社長として」を含む「八谷泰造」の記事については、「八谷泰造」の概要を参照ください。

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