戦術の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 21:36 UTC 版)
「ギニアビサウ独立戦争」の記事における「戦術の変化」の解説
ポルトガル人司令官による軍事戦略改良の中には、湿地帯で未舗装の地域での機動性を解決する為の新しい陸海共同作戦も含まれた。この新作戦では特殊海兵襲撃支隊(DFE)を打撃軍として用いた。特殊海兵隊は折り畳めるm/961(G3)小銃、37mmロケットランチャー、H&K HK21のような軽量機関銃で軽装備し、沼のような悪路における機動性を向上させた。1968年~1972年にポルトガル軍は攻撃姿勢を強め、党の支配地域に空襲を行った。この時にはポルトガル軍は特殊な対ゲリラ作戦を行っており、民族運動の政治施設を攻撃する事もあった。この戦略は1973年1月にアミルカル・カブラルを暗殺した際に頂点を迎えた。しかし党は勢いを増し続け、ポルトガル防衛軍を激しく圧迫するようになった。1970年、ポルトガル空軍(FAP)はアメリカがベトナム戦争で用いたのと同じ焼夷弾や枯葉剤を反乱やその隠れ蓑を破壊する為に用いるようになった。1970年11月22日、隣国ギニアから党への支援を妨害する為に、ポルトガル軍はギニアのセク・トゥーレ政権(党の同盟国)を転覆する為に緑海作戦を行い、党への物資輸送を切断した。この作戦では党の安全港であるコナクリを襲撃し、220人のポルトガル人陸海襲撃部隊と200人の反トゥーレ勢力が市街地を攻撃した。狙っていたクーデターは失敗したが、ポルトガル軍は党の船や戦闘機を幾つか破壊し、26人のポルトガル人捕虜を救出した。緑海作戦は紛争を激化させ、直ちにアルジェリアやナイジェリア、ソ連が党への支援を申し出る事となり、ソ連は軍艦をギニアビサウ地方(NATOは「西アフリカ巡回」と呼んでいる)に派遣し、今後のポルトガル軍によるギニアへの攻撃の阻止を狙った。国連はポルトガル軍によるギニアへの越境攻撃を非難する290号や295号決議を出した。ギニアにいる党の兵士は多くが最高の武装をし、訓練され、全てのゲリラ運動を起こした。1968年の後、党軍はソ連の近代兵器を受け取るようになり、中には9K32 ストレラ-2 (SA-7 グレイル) MANPADSやレーダー制御式対空砲、Il-14爆撃機があった。これらの兵器は効果的にポルトガル軍の航空優勢を削り、党支配地域の中の党宿営地への爆撃を防いだ。1970年までに党はソ連で候補者の訓練を行い、MiG-15戦闘機の飛ばし方やソ連式水陸両用装甲兵員輸送車の動かし方を教わった。
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