戦時の赤軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 03:21 UTC 版)
第二次世界大戦が開始された時点の赤軍は、機甲部隊を含む大半が過渡期にあり、1937年の将校団の大粛清と、1939年の冬戦争の結果からの回復を行っていた。赤軍の戦車軍団は極めて巨大で、約24,000輛の車輌から構成されていた。しかし多数が旧式化しており、また予備部品の補給の困難さと、資格のある支援人員の不足から任務を果たすには不適当だった。戦車軍団のほぼ半数が戦争の最初の一カ月で失われた。 赤軍の初期の戦略的撤退は、副次的な任務へ機甲部隊を就かせることとなった。だが戦前に行われた一つの重要な開発があった。それはソビエトの、機甲戦の戦闘教義と戦車設計へ短時間に位置を占め、10年に渡って影響を及ぼしたT-34の出現である。クリスティー・サスペンションを装備した車体で開発され、傾斜装甲による避弾経始を最初に備えていたT-34は、高初速の76.2mm戦車砲でドイツ軍に衝撃と驚異を引き起こした。広軌履帯を用いるT-34はまた、ドイツで設計された戦車が絶え間なくはまり込むような、劣悪な天候下の地形でも踏破できた。 赤軍はドイツの電撃戦という戦略が成功したこと、また運用上の方法と戦術を評価した。そこで赤軍は、戦争以前に開発された運用方法の活用に戻るべきであると結論された。また本当に、最終的に戦車軍は創設された。T-34を補助する他の車輌として、重戦車、自走砲および駆逐戦車が設計された。 第二次大戦中のソ連における戦略的な作戦行動では、多くの場合、ソ連赤軍の機甲部隊が集中投入された。作戦は厳重な機密保持の下で開始され、奇襲の原則が用いられた。
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