愛国心について
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「愛国心」という言葉に対し、「愛妻家」という言葉と似た〈好かない〉感触を持つ三島は、その言葉は官製のイメージが強いとして〈自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである〉とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、〈日本人の情緒的表現の最高のもの〉は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。 「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば〈無限定無条件〉であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、〈国境を以て閉ざされた愛〉である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。 アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は〈内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的〉にあるものだと三島は主張し、〈われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である〉としている。 恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。 — 三島由紀夫「愛国心」 こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、〈我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない〉として以下のように述べている。 「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。 — 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付)
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愛国心について
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大門は、大逆事件(幸徳事件)において処刑された社会主義者幸徳秋水から、次の言葉、「わたくしは、いわゆる愛国心が、純粋な同情・惻隠の心でないことをかなしむ。なんとなれば愛国心が愛するところは、自分の国土にかぎられているからである。自己の国民にかぎられているからである。他国を愛さないで、ただ自国を愛する者は、他人を愛さずして、ただ自己の一身を愛するものである。うわついた名誉を愛するのである。利益の独占を愛するのである。公正といえるであろうか。私ではない、といえるだろうか」(『廿世紀之怪物帝国主義』神埼清訳)という文章を引用し、「国を愛さない人はいない。しかし、ほんとうに国を愛するとはどういうことなのか、ふたたび真剣に考えなければならない時代にきています」と述べている。また大門は、ナショナリスト石原慎太郎を揶揄しつつ、筒井康隆の『アホの壁』を引用し、愛国心の持つ、「過剰反応を起こしやすいという弱点」を指摘している。
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