庶民の女性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
江戸時代の農村支配は年貢村請制となる。用水の利用など重要な事柄は村寄合で決定されたが、参加ができるのは家の当主のみであった。農民の家督相続について法的規制はなかったが、実質的には長子単独相続制であり、寄合に女性が参加することは稀だったと考えられる。しかし少ないながら17世紀前半には庄屋を女性が世襲することもあった。18世紀になると庄屋を輪番制や入り札によって選出するようになるが、女性が投票した記録もある。 江戸時代になると家族そろっての逃散がみられる。1643年の会津藩では年貢が重さから妻子共々2000人が隣国に、1690年には延岡藩山陰村から1400人が高鍋藩へ逃散した。また一揆や騒動では男性が中心であったものの、天明の飢饉からは女性の嘆願を発端として米騒動に発展するようになり、19世紀になると打ちこわしにも女性が加わる。幕末には品川の漁師の女性がお台場建設に伴い漁場を荒らされたため、新しい漁具の使用許可を求めて北町奉行役宅の前で座り込みをしてこれを認めさせている。この時は女性の抗議を男性が差し入れなどをして支えた。 町人においても相続に法的規制は無かったが、17世紀中頃には生前に被相続人を届け出る制度ができ、享保期には大阪町方に「女性が相続する場合は公儀に願い出て、1期3年に限るよう」に制約が掛けられた。一方で家財相続については京都・近江などでは分割相続が行われることもあった。商人の妻は内助の功で家業を支えた。呉服問屋越後屋の初代三井高利は「妻の心が宜しければ次第に家は繁盛する」とし三井家の繁栄に妻寿讃の貢献を讃えている。中には三井高利の母三井殊法や木綿問屋柏屋の柏原りよのように夫の没後に店を切り盛りする女性もいた。 裕福な農家では婚姻は家と親族が関与した。江戸時代後期になると、縁談は仲介人を通して持ち込まれ、見合いは当人同時ではなく夫方の家長である舅と嫁候補の娘で行われる。舅が気に入ると改めて嫁を貰いたいという申し入れをし、結納や婚礼などの準備は親族同士で進められ、本人たちは婚礼まで顔を合せなかった。大きな商家の本家では親類を招いて「入家」という儀式を行う。その後、婚礼と表披露が行われるが、表披露では町内の人びとも招いて宴を設ける。どちらの婚姻も親の同意と仲人が必要であった。江戸時代では離婚と再婚は少なくない。武家の縁組を分析すると離婚率が11.2%で、離婚した女性の再婚率は58.65%であった。離婚は両家の協議による「熟談離婚」が多く、まとまると夫が離縁状を出した。離縁状には理由は記されず、3行半程度であることから「三行半」といわれた。妻が離婚を望む場合は、願い出るのは妻の父か兄に限られていた。夫が離婚に応じない場合は縁切寺に駆け込む。
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