平成の市町村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 14:01 UTC 版)
今治市と西条市に挟まれた東予市としては、周桑郡の2町(丹原町、小松町)とともに1市2町での合併という選択肢もありえたが、小松町が早々と西条市とともに合併する方針を明らかにし、丹原町も同調する動きを見せたため、東予市もより大きな市となって行政力を高め、四国中央市、新居浜市、今治市に伍していくという観点からこれに合流した。 新居浜市も含めた「大東予」的な市町村合併構想については、新居浜市や西条市が積極的に推進する姿勢を見せなかったため、将来の課題として扱うこととなった。 合併協議の過程では、新市庁舎が西条市庁舎に決定し、新市名も「西条市」となるなど、旧西条市のペースで事態が進展することに対し、心情的に反発したり「東予市」「東予」の地名が消えることを惜しむ声もあった。
※この「平成の市町村合併の経緯」の解説は、「東予市」の解説の一部です。
「平成の市町村合併の経緯」を含む「東予市」の記事については、「東予市」の概要を参照ください。
平成の市町村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:18 UTC 版)
大三島町では、隣接の上浦町、伯方町、吉海町、宮窪町とともに、三島五町と呼ばれており、越智郡内でも島嶼部の間で緊密な関係を有していた。平成の市町村合併に臨むに当たり、大三島町としては二つの道が考えられた。 三島五町で合併する。この場合、人口3万人弱程度の町となる。 三島五町はもちろん、越智郡全体が中心都市である今治市と合併する。この場合、12万人都市である今治市と合わせて、人口は18万人程度になる。 前者は、今治市に近い吉海町に両論あり、どちらかというと今治市と合併を望む人が多かった関係から、同町も難点を示した。後者は、大三島町にとって、市役所本庁から遠く、厳しい選択といえた。しかしながら、平成の市町村合併の趣旨からすると、より大きな自治体となって行政力を強化するということからすれば、三島五町でまとまるということは求心力にも欠ける以上、やむをえない選択であった。この合併については、一抹の不安・寂しさはあったものの、町民から特に強い反対はなかった。 なお、同じ大三島内の上浦町のみとの二町合併は、合併の趣旨からして、そもそもありえない選択といえた。
※この「平成の市町村合併の経緯」の解説は、「大三島町」の解説の一部です。
「平成の市町村合併の経緯」を含む「大三島町」の記事については、「大三島町」の概要を参照ください。
平成の市町村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:22 UTC 版)
北条市としては、都市圏が一体化している松山市との合併を掲げ進めた。国道196号や予讃線で結びつき、通勤・通学者も多く、自然な組み合わせであった。2002年には合併を問うアンケートで約6割が合併に賛成した。行政には合併は不可避との認識で「合併しなければ(将来)財政が破綻する」と説明してきたが、住民にはその認識はまだまだ稀薄であり、特に市行政に対しても一定の発言権を持つとされた区長制度が松山市では広報委員制度と大幅にその地位が低下すると予想されたことから、不安視する見方もあった。 温泉郡中島町と同時の編入合併となったが、これは松山市が編入合併を原則としていたためでもある。北条市の北部にある北条スポーツセンターと赤字続きの国民宿舎の扱いが松山市から提示された懸案事項であったが、国民宿舎は廃止、スポーツセンターは(合併後の)松山市の北部のスポーツの拠点として整備する方針を2003年5月に松山市に提示、任意協議会の設置に向けて手続きを進めることで合意した。 議員の定数では、北条市議会では在任特例を希望したが、協議の結果、定数特例を適用し、3名(北条市区分)の増員選挙を実施した。(同時に合併した温泉郡中島町分1名についても併せて実施)
※この「平成の市町村合併の経緯」の解説は、「北条市」の解説の一部です。
「平成の市町村合併の経緯」を含む「北条市」の記事については、「北条市」の概要を参照ください。
平成の市町村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 20:03 UTC 版)
菊間町と隣接する大西町・波方町の3町で構成される越智郡陸地部のうち西に位置し、瀬戸内海・斎灘に面している地域では市町村合併の枠組みとして2通り考えられた。一つは、三町に玉川町・朝倉村も加えた越智郡陸地部全体で今治市と合流するという考え方である。もう一つは、三町で合併するという考え方である。 もともと菊間町にとっては人口は10117人(昭和50年)、大規模事業所が立地している関係から財政力もまずまずであり、越智郡の他の町村ほど合併に切迫感がなかったうえ、越智郡の一番西部に位置することから、なるべく「端」にならない組み合わせがよいとの考えがあった。前者は、市の西端になるから不利であり、後者なら一定の発言権は確保できるのではないかとの思いもあった。 このため、今治市と越智郡の組み合わせからいったん離脱。 三町での合併を探ろうとしたが、残りの二町は翻意せず、結局、他の市町村に迷惑をかけたと町長・議長とが法定合併協議会の場で連名で陳謝したうえ、今治市を中心とした合併協議会に合流した。 合併直前の町体育館等の整備が「駆け込み」事業ではないかとの他の町村からの批判も浴びた。
※この「平成の市町村合併の経緯」の解説は、「菊間町」の解説の一部です。
「平成の市町村合併の経緯」を含む「菊間町」の記事については、「菊間町」の概要を参照ください。
平成の市町村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:40 UTC 版)
「久万高原町」の記事における「平成の市町村合併の経緯」の解説
上浮穴郡5町村は共同事務処理の実績もあり、行政同士の地域としてのまとまりはあった。 郡の南西に位置する小田町は、河川流域が小田川(肱川の支流の1つ)で他の4町村と異なること、久万町との境の国道380号の真弓峠付近の整備が進んでおらず、行き来の障害となっていること、などから結局は内子町・五十崎町との合併を選択した。そのため、合併は4町村で進められることとなった。 庁舎位置問題は、人口が他町村を引き離して最も多く、上浮穴郡の中心であり、警察署、県土木事務所、県立高等学校などのある久万町の庁舎を使うことですんなりと決着が付いた。 町名では若干の議論があった。当初は「高原町(こうげんちょう)」とすることにしていたが、旧・久万町を中心に町名再考を求める動きがあり他の3村も同意、再協議の結果、「久万」を付けて「久万高原町」とした。久万高原という名称は、旧・久万町が観光PRにかねてから称しており、イメージや通りもよいということから採用された。
※この「平成の市町村合併の経緯」の解説は、「久万高原町」の解説の一部です。
「平成の市町村合併の経緯」を含む「久万高原町」の記事については、「久万高原町」の概要を参照ください。
平成の市町村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 10:05 UTC 版)
丹原町としては、近隣の東予市・周桑郡小松町に追従するスタンスであり、小松町長が西条市(当時)と合併する方針を早くから打ち出しており、特に丹原町内で異論もなく、西条市、東予市、小松町、丹原町の2市2町の枠組みができた。
※この「平成の市町村合併の経緯」の解説は、「丹原町」の解説の一部です。
「平成の市町村合併の経緯」を含む「丹原町」の記事については、「丹原町」の概要を参照ください。
- 平成の市町村合併の経緯のページへのリンク