帝国主義とイギリスの勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:32 UTC 版)
「アーラムギール2世」の記事における「帝国主義とイギリスの勢力拡大」の解説
さて、ムガル帝国が内外における争いにとらわれている間、帝国の衰退も相まって、18世紀以降本格的にヨーロッパ諸国といった列強がインドに進出してきた。 インドは綿花など優れた一次産品で列強の注目を引き、すでに17世紀以降列強各国が「東インド会社」を設置、インドの各地に商館ができてそれら商品の取引が行われた。一方、18世紀のヨーロッパでは、政治面では主権国家体制の端緒としての君主独裁政治(絶対王政)が次第に破壊されてブルジョワ革命が進み、人権をもつ市民という意識が西洋人の間で高まっていった。この間、産業面でも生産技術や生産体系が発達し、資本主義が空前の発展を遂げた。ところが、その進展段階で工場用地や住居用地などの土地不足が問題となった。それならば外国へ進出して自国の市場を広げようということで、資本主義は新たに帝国主義という植民地競争の様相を呈するようになる。 こうした事情から、ヨーロッパの列強諸国はインドや東南アジアにおける植民地を問題にしてたびたび争った。インドでは、フランスとイギリスの勢力が激しい戦争を繰り広げた。1757年6月にベンガル太守と結んだフランス東インド会社の軍隊はロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社の軍隊に敗れた(プラッシーの戦い)。ベンガルにおけるイギリスの支配権はこれで確定し、第三次カーナティック戦争にも敗北したフランスの勢力はインドから撤退し、主に東南アジアへと移った。 ムガル帝国にはこれらの争いにつけいる隙が無かったということは、帝国にかつての空前の繁栄は戻らないということをはっきりと示すものであった。以来、帝国の運命は(主にイギリスの)産業革命に翻弄されることになる。 また、イギリスがプラッシーの戦いに勝利した際、アーラムギール2世はその戦いのイギリス軍指揮官であるロバート・クライヴに、「ムガル帝国の花であり、保護者であり、最も勇敢な兵士である」と勅書を送っている。アーラムギール2世はイギリスが本当の侵略者と知っていたのかは不明である。
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