工業化と保護主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 16:17 UTC 版)
ドイツでは1834年にドイツ関税同盟が作られて、プロイセンを中心としてドイツの統一がすすんだ。イギリスの自由貿易は、ドイツを農業国に戻すための政策として警戒されて、ドイツの保護主義の根拠となった。フリードリヒ・リストが保護主義による工業化を主張したのも、この時代である。 アメリカ合衆国の初期の貿易政策は、保護主義にもとづいていた。合衆国の初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは重商主義やリストの思想を参考として「製造業に関する報告書」を書き、アメリカ学派と呼ばれる経済学派を形成する。アメリカ学派の政策はアメリカ・システムとも呼ばれて、下院議員のヘンリー・クレイを中心に推進された。1816年にはほとんどすべての工業製品に35%の関税が課され、1846年まで高関税が維持された。1846年以降は関税が引き下げられ、10~20%程度の穏当なものになった。やがてプランテーションによる綿花の輸出で栄える自由貿易派の南部と、工業育成を図る保護貿易派の北部との間で対立が抜き差しならないものとなり、南北戦争が勃発する。北部は勝利してアメリカ国内の産業は拡大発展して、アメリカの保護貿易政策は第二次世界大戦まで続く。アメリカの資本集約産業は、巨大な国内市場と発達した鉄道網の恩恵により、規模の経済による収穫逓増の法則を大きく働かせることができ、その競争力を飛躍的に高めることに成功した。 日本では、明治初期頃から帝国主義的な覇権競争の中で日本の利益をいかに保護するかという目的で、福澤諭吉の論説などに見られるようになった(『明六雑誌』第26号)。明治中期頃からは田口卯吉や徳富蘇峰は政府の保護貿易政策を批判して自由貿易を唱えたが、それを批判して河上肇の農業重視論などが登場した。
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