工業化 1812年 - 1945年
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「エアランゲン」の記事における「工業化 1812年 - 1945年」の解説
ナポレオン戦争後の中央ヨーロッパの新秩序とそれに続く保護主義的な関税政策は伝統的な販売市場を喪失させ、それに伴いエアランゲンの衰退をもたらした。靴下製造業は、1887年に事実上失われた。コットンプリントや帽子製造も姿を消した。白なめし業と手袋製造だけが20世紀になるまで存続した。 19世紀半ばにエアランゲンの経済はゆっくりと低水準に沈んでいった。農業やその他の産業および地域の手工業に加えて、工業が第4の産業として徐々に現れ始めた。その製品は、特にビールであった。ブルクベルクの地下倉庫は、ビールの熟成や保存に好適であり、高品質の製品が生産され、世界中で求められた。1860年末には、エアランゲンはミュンヘンの3倍のビールを輸出していた。1880年代初めの冷蔵庫の発明が、この好況を突然終わらせた。現在エアランゲンには2軒だけビール工場がある。 ビール製造と並んで、櫛の製造が重要な産業となった。エアランゲン最初の蒸気機関を利用し、ヨハン・ゲオルク・ビュッキング社によって、1845年には約 120万本の櫛が生産された。このファミリー企業は、ドイツ全土、ヨーロッパ、北アメリカの市場を席巻した。同じく国際的に活動したのが、東シュタットマウアー通りにブラシ工場を有したエミール・クッレンツライであった。この会社は第一次世界大戦前には400人以上の従業員を擁し、製品を世界中で販売した。 1880年のバウムヴォルスピネライ AG(綿糸紡績工場)の設立は、エアランゲンに新しい産業分野を開拓するものであった。多くの統廃合がなされ、1927年にエアランゲン=バンベルク綿糸紡績会社 (ERBA) が成立した。この会社は第二次世界大戦前には、5,000人が働いていた。 エアランゲンの将来の経済発展に大きく寄与したのが、大学の機械技師エルヴィン・モーリッツ・ライニガーで、1876年から光学機器や精密機械を製造した。1886年にライニガー、ゲッバート & シャル社が設立され、大学の医学部との協力で成功を収めた。1895年にヴュルツブルクでヴィルヘルム・レントゲンによってレントゲン装置が開発された後、ライニガーは即座にコンタクトし、自分のエアランゲンの工場でレントゲン装置の製造を行うことで合意した。1925年にシーメンス & ハルスケ AG がこの会社を買収し、医療技術部門を開設した。第二次世界大戦前、シーメンス=ライニガー=ヴェルク AG のエアランゲン工場には 2,000人以上の従業員が働いていた。この会社の中央管理部門は1943年にベルリンからエアランゲンに移転して来た。この街は1947年からこの企業の本社所在地となった。現在のシーメンスヘルシニアーズ(2017年末まではシーメンス・ヘルスケア事業部)はこれを引き継いだものである。 1908年からは、鉛筆削り器の製造が国際的に重要な産業となり、一時期は世界市場の 80 % を占めた。 企業家パウル・ゴセンは、1919年にバイアースドルフに電子計測機器製造業者パウル・ゴセン Co. K.-G. を設立し、翌年に本社をエアランゲンに移転した。この会社は、たとえば世界初の光学式露出計 OMBRUX を1933年から製造するなど、測定機器を製造した。現在もネーゲルスバッハ通りに遺る社屋は、1939年から1943年に建設された。この会社は1963年にシーメンス AG に買収された。ゴセン社は現在は存在しない。
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