山崎蒸留所の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 23:00 UTC 版)
「ジャパニーズ・ウイスキー」の記事における「山崎蒸留所の建設」の解説
大正に入って鳥井は蒸留所建設のため、スコットランドから技師を招聘しようとする。三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴が帰国していたことを知る。鳥井と竹鶴は旧知の仲であり、竹鶴が摂津酒造を退職していたことを知った鳥井は、1923年に4,000円の年俸、10年の契約期間を条件として竹鶴を寿屋に招聘した。 当初、蒸留所の位置については鳥井と竹鶴の間に食い違いがあり、鳥井は消費地である都市圏に近い場所を、竹鶴は北の大地に建設することを考えていた。調査と議論の末、大阪府島本村の山崎の地に日本初のウイスキー蒸留所の建設を決定した。山崎はかつて千利休が茶室を設けた場所であり、水質の良さと3つの川(宇治川、木津川、桂川)が合流するために霧が立ち込める立地がウイスキー造りに適していたのである。1924年に山崎蒸溜所が完成、その年の冬から蒸留が開始される。 国産の大麦、イギリスから取り寄せたピートを使用して、1929年に日本初の国産ウイスキー「白札」(現在のサントリーホワイト)が売り出される。価格は1本あたり4円50銭と、ジョニー・ウォーカー黒ラベルやデュワーズといった輸入品のウイスキーと比べても遜色が無かった。しかし、「白札」に含まれていたスモーキーフレーバーは、ウイスキーに馴染みのなかった当時の日本人からの評価は「煙臭い」と芳しいものではなかった。 鳥井はさらにウイスキーの改良に取り組み、1937年に改良の成果である「角瓶」(サントリー角瓶)が発売され、消費者から好評を得た。1940年に「サントリーウイスキー黒丸」(現在のサントリーオールド)が誕生するが、太平洋戦争直前という情勢のため、市場に出荷されるのは第二次世界大戦終戦後の1950年となる。 寿屋は戦禍によって大阪工場を失うが、山崎蒸留所の原酒は被害を免れた。
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