天の川銀河の考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 08:51 UTC 版)
詳細は「銀河系」を参照 ギリシア哲学者デモクリトス(紀元前450年 - 前370年)は、天の川(ミルキーウェイ)と呼ばれる光の帯は、遠くにある星だと述べた。それに対しアリストテレス(紀元前384年 - 前322年)は、巨大で数多く互いに近接した星々が発する灼熱の呼気が発火することで天の川が輝いていると、そしてこの発火は天の運動と連動している領域である大気の上部で起こっていると考えた。ネオプラトニズムのオリンピオドロス(495年 - 570年)は、天の川が大地と月の間で起こる現象ならば、時期と場所によって異なる様相を見せるはずであり、また離れた場所から観察すれば視差が確認できるはずだが、そのような事は無いとアリストテレスの説を批判した。彼は天の川は「天」にあるとみなし、この考えはイスラム世界へ影響を与えた。 イスラムの天文学(英語版)では、イブン・アル・ハイサム(965年-1037年)が初めて天の川の視差観測に挑み、有意な結果を得られなかったことから「これは地球から非常に遠くにあり、大気中の現象ではないと断定できる」と考えた。ペルシア人のアブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年 - 1048年)は天の川を、「星雲状の星が無数の破片となり集まったもの」であるという見解を示した。アンダルスのイブン・バーッジャ(?-1138年)は、天の川が互いに接触するほど近接した星々で構成され、大気上の屈折効果で繋がったように見えるという説を述べ、その証拠として木星と火星の合を観測した結果を示した。シリア生まれのイブン・カイイム・アルジャウズィー(英語版)(1292年 - 1350年)は、天の川を「球形に固められた無数の小さな星」であると説明した。 天の川が無数の星で成り立っていることは、1610年にガリレオ・ガリレイが光学望遠鏡を用いて研究し証明された。1750年、トーマス・ライトは著作『宇宙の新理論 新仮説』にて天の川を、太陽系を非常に大規模にしたような、数多い星が重力で引き合いながら寄せ集まった状態の回転体だと考えた。そして、天の川が空に架かる帯状である理由は、円盤の内側から見ているためだと述べた。 最初に天の川銀河の形状と太陽の位置を記述する試みは、1785年にウィリアム・ハーシェルによって行われた。彼は天空の星を丁寧に数え、太陽系がほぼ中心に位置する銀河系の図を作成した。ただしこれは、全ての星が放つ真の明るさは一定という前提に立っていた。1920年にはヤコブス・カプタインが考察の末、中心近くに太陽を持つ直径約15キロパーセクという小さな楕円銀河系図を作成した。ハーロー・シャプレーは球状星団の一覧を基礎にする手法から、根本的に異なる太陽が中心から離れた約70キロパーセクの平板な円盤状銀河の図にたどり着いた。これらの考察は、銀河平面に存在する宇宙塵による吸光(英語版)を考慮していなかったが、1930年になってロバート・トランプラーが散開星団の研究を通じて吸光の度合いを測り、現在考えられている直径約10万光年の銀河系の姿を描き出した。
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