大統領令により減刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:49 UTC 版)
「由美子ちゃん事件」の記事における「大統領令により減刑」の解説
死刑判決を受けた後、ハートの再審請求は却下されたが、彼の家族や退役軍人会は、彼の出身地であるケンタッキー州選出の上院議員・下院議員に働きかけ、「ハートは沖縄人の反米感情の犠牲になった」などと主張し、ホワイトハウスに減刑を陳情した。ケンタッキー州や、隣接するテキサス州の上院議員が、連邦政府にハートの減刑を求めた。 まず、ケンタッキー州の民主党員で、第二次世界大戦の退役軍人であるカール・D・パーキンスが、ホワイトハウスにハートの減刑を陳情した。その後、同州上院議員のスラストン・B・モートン(共和党)が、ケンタッキー州のVFWが発した「有罪判決は状況証拠に基づいており、ハートの有罪に関していくつかの疑いがある」という警告の決議を、個人的にアイゼンハワー政権へ転送した。また、同州の共和党員かつ上院議員であるジョン・シャーマン・クーパーや、多数党院内総務のリンドン・ジョンソン(後の米大統領)、テキサス州民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローらも支援に加わり、ハートの減刑を求める大規模な運動が起きた。 ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は1960年(昭和35年)6月1日付で、ハートを死刑から、不名誉除隊・給与手当の剥奪・重労働45年の刑に減刑する大統領裁決を出した。この裁決に当たっては、仮釈放・執行猶予、そして刑の免除に関するいかなる法律による恩恵も与えられないとの条件がつけられた。これらの経過は、琉球政府法務局が米民政府に対し、「人権侵犯事件の処理状況」について照会したところ、米民政府からの1961年(昭和36年)7月14日付の回答によって判明したものである。これに対し、軍法務部は1960年6月10日付で、ホワイトハウスに対し「憲法上、大統領裁決で認められているのは、死刑執行の承認もしくは延期、恩赦のみで、減刑は権限を逸脱している。このような過ちが永続化しないための措置を求める」とする抗議文書を出したが、減刑判断は覆らなかった。ハート本人は、カンザス州の刑務所から、上院やフォード政権の司法長官に対し、「自分は、アメリカ軍による占領の終了を求める(沖縄の)反体制政治勢力をなだめるために犠牲になったと信じる」などと主張し、仮釈放か判決の取り消しを求める嘆願書を送った。当時、琉球政府法務局次長は「刑期が45年になっていること、釈放などの恩典が除かれていることなど、額面通りに受け取れば、日本の無期懲役よりも実質的には重い」という見解を示していた。 1977年1月19日(水曜日)付で、フォード大統領は、カンザス州レブンワースの連邦刑務所に収監されていたハート(当時52歳)を含め、軍属時代に殺人を犯して死刑判決を受けた男性6人の仮釈放を許可する決定を出した。この恩赦措置は、エドワード・レヴィ(英語版)司法長官の勧告によって行われたものである。ハートは刑務所を出所すると、同年11月まで、シンシナティのグッドウィル・センター (Goodwill Center) で職業訓練を開始し、後に夜警として働くようになった。ハートは1981年6月12日、キッチンヘルパー (Kitchen Helper) の女性 Lura B Nicely と結婚したが、1984年8月6日、オハイオ州の退役軍人省の病院で死去した(60歳没)。ハートの妻となった Lura は、彼を「法を順守し、善良で道徳的な市民」として溺愛し、結婚から1年後には、ハートに対する完全な大統領恩赦を求め、ワシントンに書類を郵送していたが、それに対する結論は、ハートが死去した時点でもまだ出ていなかった。ハートは死後、オハイオ州ハミルトン郡レディング(シンシナティ郊外)に埋葬され、アメリカ政府から従軍を讃えられる形で墓石を贈られた。退役軍人省によれば、不名誉除隊されたり、軍法会議で有罪判決を受けたことによって除隊されたりした人物や、死刑に値する重罪ないし特定の性犯罪を犯した人物は、墓石提供(退役軍人に対する恩典の1つ)を受けられなくなるが、ハートがどのような経緯で墓石を提供されたのかは不明で、退役軍人省は2021年9月25日、『沖縄タイムス』の取材に対し、その経緯について調査する旨を回答したが、2022年2月21日までに、墓石の提供を「(当時の)法律に従った対応だった」として、撤回しない考えを示している。
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