多様な禁色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 23:51 UTC 版)
時代が進むにつれ、朝廷の服装に変化が生じる中で、さまざまな服装に関する規則が生じ、それらの一部も禁色と呼ばれた。 「禁色」の範囲としては、特に、支子色、黄丹、赤色、青色、深紫、深緋、深蘇芳の7色と、文様のある織物をあげる考え方があり、かつては、これらをまとめて禁色勅許と関わるものと理解する説もあった。しかし、この7色と有文織物の禁止の経緯や時期、対象はそれぞれであり、すべてが禁色勅許と関わるわけではない。 7色のうち、黄丹、深紫、深緋、深蘇芳は、当色以上の服色を着てはならないという規定によるものに過ぎない。支子色については、支子と茜や紅花を交染すると黄丹とよく似た色になることから、元慶5年(881年)に禁令が出され、『延喜式』にも禁止の規定が掲載された。 赤色(赤白橡)、青色(麹塵、青白橡とも)は、天皇の袍に用いる色であるところから、禁色に含めて考えられたが、歴史的には常に天皇のみに許された色ではない。赤白橡の袍は、10世紀の『延喜式』においては参議以上の着用が認められたが、平安時代後期には、天皇、太上天皇のほか、内宴や、行幸・御幸等(ただし天皇・上皇が赤色袍を着ていない場合)に摂関が着用するのみとなった。青色は青摺との関連が指摘され、また「衣服令」服色条の黄橡に相当するとも言われる。青色袍は内宴や賭弓等の特定の行事に際して官人が着用したほか、雑色や女性の着用例もある。しかし、平安時代後期にはこういった行事が衰退したため、青色の袍を着用するのは主に天皇と蔵人となった。ただし、綾の使用の制限により、綾の青色袍は公卿以上に限られていたため、六位蔵人がこれを着用できたのは禁色勅許によるものであった。また、赤色袍、青色袍とともに、元服前の童の装束(童装束)としても用いられた。赤や青の唐衣は上臈の女房に許される「禁色」ともなった(後述参照)。 『延喜式』にはその他にも、綾を位袍に用いることができるのは五位以上であるとか、蘇芳色は公卿以上のみに許されるといった規定が見え、また禁色は下衣にも及ぶことや、女性は父親の位階に応じて服装が許されたことが示されている。また、深紅は染料の紅花が高価であること等から度々禁令が出された。違反する服装の取り締りの厳しさは時代や状況によって異なるが、弾正台や検非違使等によって破却されることもあった。
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