在家信者の場合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 04:21 UTC 版)
当時の社会で一般的であったバラモン教と新しく生まれた仏教とは、二者択一的な矛盾関係にはなかったとされている。仏教側としては、娑婆世界に暮らす人は修行者としてのゴーダマに施与をするのは当たり前の習慣であって、施与は修行完成者に施与をするという功徳を積むことができるものと考えていた。 ゴータマは、世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説くと語り、世の中の苦に対しても苦集滅道を働きかけていたと見ることができる。 「世の人々のことについて、聖者は、善き友と交わることをほめたたえられました。という言葉からは、世の人の苦しみを救うのに、ゴータマは自らをその人の第一の善友となるべく、伝道・苦集滅道・他心通・対機説法等の活動を行っていたと見ることが出来る。 コーサラ国王に対して、世には四種類の人間がいることを説いた。1、闇から闇におもむく者(死んでから地獄の暗黒におもむく)、2、闇から光におもむく者(死んでから神々の世界におもむく)、3、光から闇におもむく者、4、光(富んでいて、信仰・崇高な思いがある)から光におもむく者、の4種類の人間がいることを説いた。 在家で生活の業を営んでいる者(王も含まれる)には、戒めと最上の生活が大切であるとしていた。仏教は業を捨てることが一般的と考えられているが、初期には正しい行為、善い行為を積極的に勧めていたとされる。 また、コーサラ国王に対して、理法に従って努めはげむ者は、現世の利益と来世の利益とをともに達成しうることを説いたところを見ると、政治を含めた人間社会全般の生き方について、来世や、不死の門における生命を前提とした滅と、現世での幸福を達成する生き方は別のものではないと考えていたようにも見える。 死んだ90人以上の在家信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷いとが漸次に薄弱となるがゆえに、(一度だけ帰る人)であり、一度だけこの世に還ってきて、苦しみを滅ぼしつくすであろう。死んだ500人以上の在家信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、(聖者の流れに踏み入った人)であり、悪いところに堕することのないきまりであって、必ずさとりを達成するはずである。 世俗の生活をしている人が、そのままでニルバーナを体得できるかどうかということは、初期について讃意を表したことがあるとされる。その神の子とは、実在していた(孤独な人々に食を給する長者)と呼ばれる資産家であったことと、生前、サーリプッタ長老を信仰していたことを、アーナンダとゴータマは語ったとされる。
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