名作・ヒット作
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しかしながら、渡辺は翌1968年(昭和43年)には1作も同社で作品を発表することなく、同社を離れることになる。したがって同社は、山本晋也を中心に作品製作を行うことになり、1969年(昭和44年)には、山本のフル稼働による量産に加えて、大野裕司が橘明の名で監督昇進、助監督でありすでに脚本家としてはデビューしていた原良輔の監督昇進、志賀隆や酒匂真直の参加を得て、同社は、45作もの作品を発表した。のちにシリーズ化していく山本晋也の監督作『未亡人下宿』も『女湯物語』も、いずれもこの時期の同社が製作し、いずれも同年6月に公開されている。 2年間にわたり同社を離れていた渡辺護は、山本晋也が仲介して小森白と和解、1970年(昭和45年)4月、『シロクロ夫婦』を監督して同社に復帰する。渡辺は、同社を離れていた時期に星光一郎の関東映配(のちの大東映画)と提携関係をすでに築いており、当時の渡辺の代表作とされる『男ごろし 極悪弁天』(1969年)、『おんな地獄唄 尺八弁天』(1970年)、『濡れ弁天御開帳』(1971年)の三部作、ならびに『(秘)湯の街 夜のひとで』(1970年)は、関東映配(大東映画)で配給されている。同年12月に同社が製作した『観音開き・悪道女』は、小森の「弁天シリーズのようなものを撮れ」との要望に応えて、渡辺が監督した作品である。1971年(昭和46年)には、同年5月14日に逮捕されたことをきっかけに全貌が徐々に明るみに出た大久保清の連続殺人事件をモデルに、実際に犯行現場でロケーション撮影を敢行、報道された事実を日々書き足して撮影した『日本セックス縦断 東日本篇』(監督渡辺護)を製作、同作は同年7月に公開されて大ヒットを記録する。同社での渡辺の時代は短く、同作以降、渡辺は同社での監督作はなかった。同年10月には、同社で助監督を務めてきた栗原幸治(1940年 - 没年不詳)が『白い液』で監督に昇進した。同年9月に同社が製作・公開した『大色魔』(監督山本晋也)は、「日活ロマンポルノ裁判」(1980年無罪結審)の際に、同月に公開された葵映画の『女紋交悦』(監督小林悟)とともに、裁判のための参考試写作品に選定され、上映された。 1973年(昭和48年)5月に公開された『失神モーテル 強烈のぞき穴』を監督したのを最後に、山本晋也も同社を去る。同12月に公開された『勤務中セックス』(監督黒木剛)、ならびに『実録拷問性犯罪』(監督堀越善明)を最後に、同社は活動を停止する。小森白は引退、『映画年鑑 1973』にはすでに同社の北海道支社の記載はない。同支社長を務めていた船橋六郎は、のちに東京興映北海道という会社を設立、同社代表を務めつつ、札幌市内の札幌中映劇場(南4条西3丁目)支配人を同館の閉館(1984年)まで務めた。同社が第1作を手がけた『未亡人下宿』は、代々木忠のワタナベプロダクションが製作して、1974年(昭和49年)に『セミドキュメント 未亡人下宿』(主演青葉じゅん)として山本晋也がセルフリメイク、以降、製作会社は現代映像企画等に継承されつつ、1984年(昭和59年)12月22日公開の『愛染恭子の未亡人下宿』(主演愛染恭子、製作マイルストーン)に至るまでシリーズ化され、16作が製作され、日活の配給により公開された。 1975年までに日本シネマ、葵映画、国映、東京興映、新東宝の各社の作品が「新東宝配給」として統一 。
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