原爆遺構の保存問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:25 UTC 版)
「カトリック浦上教会」の記事における「原爆遺構の保存問題」の解説
被爆した天主堂遺構の保存については、被爆直後の1945年10月に長崎医科大名誉教授で長崎市議会議員でもあった國友鼎が、市議会にて「(略)人類の責務において我等はこの被害のあとを詳細に記録せねばならぬのだ…」と保存を訴えた。1949年(昭和24年)4月には「長崎市原爆保存委員会」が発足している。 1955年(昭和30年)5月、前年に発生した第五福竜丸事件の影響により日本各地で原水爆禁止運動が盛んになると共に反米感情が高まる中、カトリック長崎司教山口愛次郎は天主堂再建の資金援助を求めて渡米したが、米国側から資金援助の条件として天主堂遺構の撤去を求められたという。ちょうど同じ頃、長崎市は米国ミネソタ州セントポール市との間で日米間の都市としては初めてとなる姉妹都市提携を締結。当時長崎市長で天主堂遺構の保存に前向きであった田川務は、締結の翌年1956年(昭和31年)に米国を訪問したが、帰国後は保存に否定的な立場となるなど態度を一変させている。1958年(昭和33年)の市議会では「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。 浦上小教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は、信徒からの浄財及び寄付金による現地での再建計画を明らかにする。その動きを覚知した原爆資料保存委員会は、1958年(昭和33年)に「旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する」と提案した。しかし山口愛次郎はこれに対し、「天主堂の立地は、キリスト教迫害時代に信徒たちが踏み絵を強いられた庄屋屋敷跡であり、その土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが、移転は信仰上到底受け入れることはできない」という意思を決定した(浦上教会公式サイトにも同様の経過が記載されている)。 「浦上四番崩れ」、「浦上崩れ」、「隠れキリシタン」、および「日本のキリスト教史」も参照 キリシタン迫害に耐え抜き、悲願として浦上天主堂を建設した原爆被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に再建を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されることになった。現在、浦上教会信徒会館2階には、再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学することができる。 一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の「原爆ドーム」(旧広島県産業奨励館)のように爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えられる遺物を残せなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界遺産に登録されて広島を代表する観光資源となったことから、残されていれば原爆ドームと同じく世界文化遺産になった可能性が高い被爆遺構が取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。 2018年6月30日、UNESCO世界遺産として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録され、大浦天主堂などが認定されたが、再建された浦上天主堂はこれに含まれていない。 天主堂に於ける慰霊祭(1945年11月23日) 倒壊を免れた外壁(1945年) 倒壊した天主堂(1946年1月7日) 国連本部の被爆聖アグネス像 爆心地公園に保存されている遺構
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