出馬・政界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:54 UTC 版)
大学在学中、民主党の鳩山由紀夫事務所、およびキャバクラでアルバイト(後に副店長を務める→正確には地元M工務店経営の『スナック』で、当時のつくばにキャバクラは存在しなかった)をしていた。 筑波大学を中退後、就職活動が上手くいかず、旭川の実家に「もう帰ろうと思う」と弱音を吐いたところ、父に「帰ってくるな。働けないなら死んだほうがいい」と言われて目が覚め、「それぐらいでないと人間は生きていけないと悟った」と後に語っている。 その後、派遣社員として総理大臣官邸の隣りにある山王パークタワーでビル清掃員の仕事(アルバイトとの報道もあり)を始める。トイレ掃除等も行っていたが、汚し方の酷い使い方をされる状況にもめげずに自らの仕事に誇りを持ち清掃を続ける年配の同僚の姿に、職業に貴賤は無いと悟る。また、同僚の年配の人々と親しくなり、のちに選挙事務所を手伝ってくれた人もいた。ある日の勤務中、ビル内清掃で顔馴染みになっていたドイツ証券のグレン・ウッドという人物から「キミは若いし、そんなに頭も悪そうじゃない。1週間後、うち(ドイツ証券)の入社試験を是非受けなさい」と声を掛けられ、試験を受けて契約社員として働くようになった。清掃員の同僚に報告をするといつもは集まらない面々が一堂に会して就職祝いの宴を張ってくれ、新たな門出を祝ってもらったという。ドイツ証券では株式調査部に配属され、当初はお茶汲みや資料集めなどの雑用をしていたという。 ある時、グレン・ウッドから郵政民営化の動向を調査するように依頼をされ、調査を行っている2005年(平成17年)の自由民主党の公式サイトをみて候補者公募を知り、一次審査の論文課題が自身が調査していた『郵政民営化と構造改革について』であったことから応募した。翌日に自民党本部から『すぐ来られますか?』と電話があり、その後5度の面接を経て公募に合格した(元参議院議員で太蔵の「教育係」を勝手に名乗っていた大仁田厚の著書『国会デスマッチ』によると、太蔵の父親は元々北海道で当時自民党幹事長だった武部勤の後援会の有力支持者であるとのことだが、選挙にその父親が出る訳にはいかず息子である太蔵を比例名簿に登載させたことにしたらしい)。 郵政解散を受けて行われた2005年(平成17年)9月11日の第44回衆議院議員総選挙で、自由民主党福岡県支部連合会から福岡1区出馬の推薦を取り付けたが、党本部が難色を示したため、比例南関東ブロック35位での出馬となった。この総選挙では都市部を中心に自民党が圧勝し、同ブロックの多くの候補者が次々と小選挙区で当選し、順位が繰り上がった事から当選した。当選直後、自分は「ヒラリーマン」(ヒラのサラリーマンという意味の造語)にすぎない旨を述べた。その後もインタビューで「早く料亭に行ってみたい」、「真っ先に調べたのは国会議員の給料。2500万円ですよ」、「念願のBMWが買える」等の自由奔放な発言を連発した。
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