共同調査会と反共活動
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1950年代半ば、日本共産党が武力闘争主義からソフト路線へと戦術を転換、"歌って踊って恋をして"を謳い文句に、組織拡大を図る民青が下部組織の労音を通じて、積極的に歌ごえ運動を展開、青少年の間へ急速に浸透し、企業内にも勢力を拡大して党員の組織化を行っていた。左翼勢力の拡大を危惧した桜田は1955年9月、その食い止めを目的とする「共同調査会」という秘密裏の団体を設立。この「共同調査会」を軸に広範な反共活動を行う。代表は植村甲午郎であったが、実質上のリーダーは桜田で、日経連の分身というべき、この団体の設立にあたり「自由主義経済を守り抜こう」と桜田の呼びかけに応じ有力者が続々と集まった。東京財界から桜田、植村、永野重雄、小林中、水野成夫、今里廣記、佐藤喜一郎、大阪財界の芦原義重、松下幸之助、堀田庄三、松原与三松、名古屋財界から野渕三治の計12人を幹事、小坂徳三郎、鹿内信隆、井深大、早川勝、坪内嘉雄、田代茂樹、諸井貫一、盛田昭夫らを幹事補佐とした。会の性格上、表に堂々とは出られず、あくまで覆面組織として通し、事務所は日比谷の日活ビル(のち日比谷パークビル、現在のザ・ペニンシュラ東京)の一室に置き、表札も付けず、月に1回このメンバーが集まった。特に1959年の三井三池争議は、財界人にとって敗北は絶対に許されない天下分け目の戦いであったが、「共同調査会」は、財界(使用者側)の勝利を収めるべく、三井争議の会社側である三井鉱山を支援し、三井争議の資金援助や支援組織作り及び、鎮圧にあたる。また政府側の責任者である松野頼三労働大臣がまったくノータッチで動かないため、第1次岸改造内閣で石田博英を労相に桜田らが推した。石田は、この三井争議での功績から労相ばかりやることになる。先の労音に対抗する手段としては、音楽文化協会(音協)及び、全国文化団体連盟(全文連)を結成させた。また企業に浸透した共産党員の洗い出し、民社党への結党資金の提供、日教組の分裂工作などの他、ニッポン放送設立、フジテレビ開局、産業経済新聞社買収に於けるこのグループを中心とした支援も、メディアを通じた反共対策の一端ともいわれる。「共同調査会」は1968年11月までの13年間活動を続けた。鹿内信隆は「解散の理由は共産主義、社会主義に対する危機感が薄らいだ。国民協会ができて政治のための金がケタ違いに多くなり"財界四天王"が財界を動かせなくなった。佐藤栄作が企業を遠ざけ財界をバカにするようになったこと」と話している。勿論これは「財界四天王」が君臨した時代の衰退を意味する。
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