全盛期の業績
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「ソフィア・コワレフスカヤ」の記事における「全盛期の業績」の解説
4年間のワイエルシュトラスの指導を受けたコワレフスカヤは3つの論文をまとめ、1874年、ゲッティンゲン大学からイン・アブセンティア(in absentia;口頭試験の免除)で数学の学位が授与された。これらの論文のテーマは「偏微分方程式についての理論」「(それを適用した)土星の環の形についての研究」「アーベル積分についての研究」である。特にクレレ誌(Crelle's Journal )に発表された偏微分方程式についての研究は、初期値問題の解の存在と一意性を示したもので、現在では「コーシー=コワレフスカヤの定理」として知られる(コーシーが特異解を、コワレフスカヤが一般解を与えて理論を完成させた)。また「第3種アーベル積分の明瞭なある区分の還元について」と題されたアーベル積分に関する論文は、ワイエルシュトラスの研究を拡張させたもので、アーベル積分をより簡単な楕円積分に帰着させる方法を与えている。その後、この論文は1848年にアクタ・マセマティカ誌に掲載された。 この年、夫ウラジーミルとの仲は契約結婚から本当の結婚になっている。また、同年に彼女はロシアへ戻ったが、この学位とワイエルシュトラスの強い推挙により数学者としての名声は知れ渡っていたにもかかわらず、やはりサンクトペテルブルク大学で職を得ることはできず、声が掛かった中で最もマシな職は小学校の算数の先生であったという。落胆の上に父の死なども重なったため、コワレフスカヤは気晴らしのため社交界デビューしたり文学に手を染めたりなどして(コワレフスカヤの文才については「その他」を参照)、以後6年間にわたり数学からは手を引くこととなり、ワイエルシュトラスとの交友も途絶える。容姿が優れていたため社交界では有名になるが、1878年に娘を産んで周りが静かになったのをきっかけにして再び数学への情熱が目覚める。 1880年、コワレフスカヤはモスクワへ行くが、大学で博士号試験を受けることは認められなかった。翌年、教授職を得るため彼女はモスクワを去り、ワイエルシュトラスを頼ってベルリンとパリへ向かった。モスクワを去ったのには、事業に失敗して以降彼女と意見の合わなくなっていた夫との別居という意味も含まれていた。 1882年から彼女は結晶体における光の屈折に関する研究に打ち込み、3本の論文を執筆する(ただし、この論文が依拠していたガブリエル・ラメの研究に含まれているのと同じ誤りをおかしていることが、1916年ヴィト・ヴォルテラによって指摘された)。 1883年3月、パリ滞在時に夫コワレフスキーが自殺。ショックを受けた彼女は、引きこもり、拒食、失神、目を覚ますと同時に手元のノートに数式を書きなぐる、という荒んだ生活を続けることになったが、同年の秋には立ち直った。 1884年秋、ミッタク=レフラー(スウェーデンの数学者。コワレフスカヤと同じくワイエルシュトラスの弟子で、彼の伝記も書いた。関数論、楕円関数論、アーベル関数論など。当時ストックホルム大学の学長だった)の招聘により、ついにストックホルム大学の非常勤講師の地位を得て、のち1889年にはロシア人女性としては初の大学教授になった。ストックホルムは彼女の終生の地となる。 終生の地となるストックホルムで教授職を務める一方、アーベル関数についての新しい理論を適用することにより論文『固定点をめぐる剛体の回転について』を完成させ、1888年にこの研究論文に対してパリの科学アカデミーからボルダン賞が与えられた。この論文の重要性は疑いようもないものだったので、賞金が当初予定されていた3000フランから5000フランに増額されたという。1889年、この分野における第2の研究成果によってスウェーデン科学アカデミー賞を受賞した。また同年、チェビシェフらの推挙によってコワレフスカヤはサンクトペテルブルク科学アカデミー初の女性メンバーになった。 1891年、コワレフスカヤはストックホルムでインフルエンザと肺炎を併発し、41歳の若さで没した。
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