倉吉・若狭の千歯扱き製造と行商とは? わかりやすく解説

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倉吉・若狭の千歯扱き製造と行商

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:30 UTC 版)

千歯扱き」の記事における「倉吉・若狭の千歯扱き製造と行商」の解説

鳥取県中央位置する倉吉は、江戸時代から千歯扱き製造盛んな場所だった。明治22年1889年2月4日付「官報」の「倉吉稲扱製造景況」という記事によると、江戸時代安永年間(1772-1780)に製造始まり天保9年1839年)の改良により名声得て明治時代倉吉多く千歯扱き関わるようになった、とある。倉吉鍛治町があり、江戸時代前期から多く鍛冶屋があった。倉吉では、千歯のことを「千刃」と表記するが、倉吉千刃の製造はこの鍛治町中心だった。また、千歯扱き販売や行商人への資金貸出を行う「耕舎」という会社明治13年1880年)に倉吉出身三島久平とその近郊に住む岩本二人によって創設された。 製造工程は、穂を作る鍛冶仕事とできた穂を台木取り付ける仕事分けられる鍛冶仕事原料地金から板状荒金をとり、それを割って穂の素材とし、たたき伸ばし、また鍛えて穂を造りヤスリ削って刃をつけ、焼きを入れて完成する出来た穂をからみ釘をつかって台木取り付ける仕事は「からみ」と呼ばれ千歯扱き善し悪し決め大事な作業で、熟練職人あたっていた(注:「伯州倉吉改良稲扱株式会社」の製造工場職人様子写したガラス乾板写真内容に基く。) 倉吉千歯扱き行商中心に販売されてきた。自ら行商先を選んで行く場合もあれば、先方求めに応じて行くこともあった。倉吉製造技術鍛冶職人行商により全国伝わってきたが、中には行商先に移り住み現地製造する事例見られた。耕舎の田中富蔵は、行商先の八王子に店を構えて製造・販売修理行った富蔵千歯扱き八王子をはじめ、埼玉東京神奈川広く使われており、好評得ている。 また、若狭地方千歯扱き製造行商盛んなところで、製造は主に早瀬(現・福井県三方郡美浜町)で造られたものだった早瀬江戸時代からの千歯扱き産地で、その始まり寺川庄兵衛よるものである。庄兵衛は「北国屋」という屋号千歯扱き製造し販売や行商を行ったその後北国屋は次の世代受け継がれ千歯扱き製造続けている。若狭行商によって販売されていた。行商全国規模長期渡っていたようである。明治44年1911年)の「三方郡誌」では初期行商先は三越越前越中越後)と奥羽諸州であり、交通発達した頃になると北は北海道、南は沖縄まで及んでいること、また男女とも17・8歳になると親子兄弟あるいは夫婦親戚同士で組を作り陰暦5月節句前後から正月前に至る行商をしていたこと、そして行商人の数が200人であることが記されている。明治42年1909年)末の早瀬人口は1327人で、子供の数を考えると成人の5人に1人千歯扱き行商携わっていた。若狭早瀬はまさに千歯扱き行商集落だった。 千歯扱き販売多く掛売だった。多く場合稲刈り前に販売し収穫終わった後に訪れて残金精算をしている。行商の期間は長くなり、また二度手間にはなるが、収穫後であれば農家現金収入得ている。行商人にとっても農家にとっても都合のよい方法といえる。また倉吉鍛冶職人による行商であるのに対し若狭早瀬商売人による行商である。

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