伽藍の整備とは? わかりやすく解説

伽藍(がらん)の整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:19 UTC 版)

唐招提寺」の記事における「伽藍(がらん)の整備」の解説

唐招提寺寺地平城京右京五条二坊に位置した新田部親王跡地で、広さは4町であった創建伽藍東西255メートル南北245メートル)。境内の発掘調査結果新田部親王邸と思われる前身建物跡検出されている。また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏軒丸瓦と重弧文軒平瓦組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内現存する2棟校倉造倉庫のうち、経蔵新田部親王宅の倉庫切妻造から寄棟造改造したものとされている。すなわち、『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集所収)に「地主屋倉」として挙げられている3棟の倉のうちの一つこれにあたるとみられる。他に新田部親王時代建物はない。 『招提寺建立縁起』に、寺内建物の名称とそれらの建物は誰の造営よるものであるかが記されている。それによると、奈良時代唐招提寺には、南大門西南門、北土門中門金堂経楼鐘楼講堂八角堂3基、食堂じきどう)、羂索堂(けんさくどう)、僧房小子房、温湯室、倉などがあった。このうち南大門西南門、北土門中門金堂鑑真弟子でともに来日した如宝造営講堂は、平城宮東朝集殿を移築したもの、食堂じきどう)は藤原仲麻呂家の施入寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった藤原清河は、鑑真渡日した際の遣唐使大使であったが、鑑真乗った第二船と異なり清河乗った第一船は遭難して唐へ戻され、彼は唐の地で没した。「藤原清河家の施入」とは、清河の家の建物移築したもしくは清河家族建築費を負担した、の意に解されている。これらの建物のうち、もっとも早く鑑真在世中に建立されたものは講堂であった金堂建立年代には諸説あったが、部材年輪年代測定結果781年伐採され材木使用されていることがわかり、鑑真没後8世紀末の建立であることが確実視されている。『招提千歳伝記によれば唐招提寺歴代住持鑑真法載、義静、如宝豊安の順となっているが、このうち4代如宝時代金堂を含む伽藍主要部建立されとみられるまた、鎮守社として境内の東に水鏡天神社建立された。 主要伽藍のうち、もっとも遅れて建立されたのは東塔で、『日本紀略』に弘仁元年810年)の建立とある。

※この「伽藍(がらん)の整備」の解説は、「唐招提寺」の解説の一部です。
「伽藍(がらん)の整備」を含む「唐招提寺」の記事については、「唐招提寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「伽藍の整備」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伽藍の整備」の関連用語

伽藍の整備のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伽藍の整備のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの唐招提寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS