人物・政歴
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福岡県出身。日本大学歯科医学校(現:日本大学歯学部)卒業後、東京歯科大学インターン修了、軍医を経て札幌市で歯科医院を開業、後に神奈川県大和市に転居。 札幌医科大学歯学部設立委員、北海道大学歯学部設立委員を歴任。 『歯科近代化センター』所長兼理事長。 『日本の身障者を守る会』会長。 『日本世直し会』会長。 神奈川県を選挙区とする衆議院議員総選挙、参議院議員通常選挙に頻繁に出馬し、参議院議員補欠選挙にも名乗りを上げていた。 当初無所属(『日本世直し会』など推薦)で立候補していたが、1983年(昭和58年)5月、参議院議員通常選挙に比例代表制が導入されたこと契機に、福田拓泉の支援を受け、『日本世直し会』を母体に政治団体『日本世直し党』を結党し代表に就任、確認団体として10名の候補者を擁立。以後、同党公認で出馬するようになった。 1990年第39回衆議院議員総選挙に東京都第4区から出馬するも麻原彰晃以下の得票数であった。 1995年(平成7年)7月の第17回参議院議員通常選挙比例代表区に、『日本世直し党』名簿搭載順位第1位で立候補して以後、立候補活動を休止。 立候補した総ての選挙に落選し、供託金を没収された。いわゆる「泡沫候補」の中でも毎回得票が伸び悩み、最下位前後で落選することが多かった。 汚職・政治腐敗打破、行政改革、不公平税制の是正、消費税反対、総理大臣の直接選挙、議員定数削減・医療の無料化、女性の地位向上、グローバリズム、反戦・反核、軍事大国化反対、元慰安婦や樺太残留朝鮮人への国家補償など、穏健かつリベラルな政策を掲げていたものの、街宣右翼や総会屋に政治活動の面倒を見させるなど、清濁併せ呑む一面もあった。これは『世界政府創設委員会』などを名乗った南俊夫も同様であった。
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人物・政歴
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事件屋、総会屋として知られる古賀隆助の兄。 長崎県の街宣右翼『領土問題研究会』の荒牧敬三が、1982年12月に結党した政治団体『日本自由民主党』を譲り受け、東京に移し第2代党首になった。 翌1983年4月の東京都知事選挙に『日本自由民主党』公認で初出馬。自由民主党推薦の現職、鈴木俊一が通例に従い無所属で立候補したため、一部の有権者に混同を生じさせ、19,304票を獲得。赤尾敏(19,234票)を上回る3位に着け、減票工作は成功した。 同年6月の第13回参議院議員通常選挙には当初、『日本自由民主党』を確認団体として新設の比例代表区に9名の候補者を送る予定だったが、中央選挙管理会によって却下され、東京都選挙区から原田興(はらだ おき)を擁立したのみに留まった。 また同年12月の第37回衆議院議員総選挙では、旧東京1区から北嶋雅彦を、旧長崎2区から小林建を、各々『日本自由民主党』公認候補として擁立。更に古賀本人も、常連候補の田尻容基(伯夷叔斎得仁会、日本文化始租王仁博士顕彰会等)から譲り受けた『日本公明党』の公認候補として旧東京3区から出馬し、グループの総力を結集して創価学会及び池田大作批判を展開した。 「鶴タブー」に正面から挑んだ主張は一部の有権者に受け入れられ、『日本自由民主党』『日本公明党』の公認候補は全員落選したものの、居並ぶ諸派候補の中にあって最上位に食い込む健闘を見せた。古賀の選挙対策事務所に「秋谷栄之助」名義で賛助金が届けられる等の珍事も生じ、週刊誌ネタになった。 その後、1986年の衆参同日選挙に参院選(比例代表区)から『日本公明党』を確認団体申請したが、中央選管に再却下され、代わりに衆院選(中選挙区)で候補者擁立を画策したものの、結局出馬断念に追い込まれた。これと前後して『全国人権擁護連盟』委員長を名乗る古賀が、東北歯科大学(現奥羽大学)に対する恐喝で摘発され、以降沙汰止みになっている。
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