人物・政治思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:53 UTC 版)
羯南は、三宅雪嶺、徳富蘇峰、朝比奈知泉、池辺三山、福本日南、山路愛山等と並ぶ明治中期新聞界の巨峰であった。しかし、比較的短命であったのと、孤高の生涯を送ったために既述の人たちほど世間に知られていない。同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は陸羯南を評し、「古処士の風あり」とし彼の政治思想は中国儒教の基礎の上にドイツの国家主義を据えたものと考える。「ゆえに彼の大臣責任論はあたかも支那の諫議大夫の弾劾に彷彿たり。…彼は貴族と平民を調和せんとし、行政的知識を以て勝る」とも評されている。 羯南が起こした『日本』新聞は、伊藤・黒田・山県・松方・桂等の歴代内閣に対して明治22年(1889年)より同38年(1905年)までの間に合計31回、233日に及ぶ発行停止を食らっている。その中に明治22年(1889年)8月7日からの15日間(黒田内閣)、明治24年(1891年)5月24日から23日間(第1次松方内閣)という長期に渡る発行停止処分もある。最も集中的に弾圧されたのは、明治26年(1893年)末から翌年の正月にかけての第2次伊藤内閣に迫ったときである。それは12月4日(3日間)、12月27日(7日間)、翌年1月5日(10日間)、2月10日(5日間)のわずか2か月の間に25日間発行停止処分にされている。羯南は、自らの日本主義を国民論派または国民旨義と規定し、根本的立場とした。実践上ではどこまでも根本的立場を貫いた。それが上に記述した発行停止処分を受けたことに示されている。
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