乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
乾漆行信僧都坐像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:27 UTC 版)
国宝。奈良時代。像高88.5センチ。夢殿堂内、壇上の北東(向かって右奥)に安置される。麻布を漆で張り重ねた脱活乾漆像。もとは彩色されていたが、ほとんど剥落している。法隆寺東院伽藍の創立者である行信の肖像で、頭頂がやや尖り、両目は吊り上がり、鼻翼が大きい、個性的な面貌に表される。両手は膝に置き、持物(じもつ)の如意を執る。この如意は角製で、造像当初のものである。礼盤形の台座は鎌倉時代の作。『法隆寺別当次第』には、永保3年(1083年)、夢殿の行信像と道詮像(後出)を仏壇下から仏壇上へ移動したとの記録がある。大江親通が嘉承元年(1106年)に南都の諸寺を巡拝した際の記録である『七大寺日記』には、行信像は「丑寅角」にあったと記されており、本像はその当時から現状とほぼ同じ位置に安置されていたことがわかる。行信については生没年を含め、生涯のくわしいことはよくわかっていない。平安時代末期の『七大寺年表』は行信の没年を天平勝宝2年(750年)とするが、実際はそれより長生きしたとする説もある。仮に行信の没年を750年とし、没後まもなく本像が作られたとすると、本像は唐招提寺の鑑真像(天平宝字7年・763年頃)より十年以上古い、日本最古の肖像彫刻ということになるが、後述のように、実際の制作年代はもう少し下るとみられている。『続日本紀』天平勝宝6年(754年)11月24日条に、「薬師寺行信」なる僧が厭魅(えんみ、呪詛によって人を殺すこと)を行ったかどで下野薬師寺に流罪になったとの記事があり、これが東院伽藍創立者の行信と同一人物か否か、同一人物である場合、流罪になった人物の肖像を作ったのはなぜかという点が疑問である。浅井和春は、天平神護2年(766年)、「薬師寺行信」と同じ時に流罪になった大神多麻呂という人物が復位したとの記事が『続紀』にあることを指摘し、この時行信の名誉も回復されたのではないかと推定した。また、その翌年にあたる神護景雲元年(767年)には行信発願の大乗経2,700巻(通称行信経)が完成している。このため浅井は、行信の復権と大乗経の完成を機として本像が作られたのではないかと想定している。
※この「乾漆行信僧都坐像」の解説は、「法隆寺の仏像」の解説の一部です。
「乾漆行信僧都坐像」を含む「法隆寺の仏像」の記事については、「法隆寺の仏像」の概要を参照ください。
- 乾漆行信僧都坐像のページへのリンク