乾漆行信僧都坐像とは? わかりやすく解説

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乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)

主名称: 乾漆行信僧都坐像(所在夢殿
指定番号 43
枝番 00
指定年月日 1952.03.29(昭和27.03.29)
国宝重文区分 国宝
部門種別 彫刻
ト書
員数 1躯
時代区分 奈良
年代
検索年代
解説文: 奈良時代作品

乾漆行信僧都坐像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:27 UTC 版)

法隆寺の仏像」の記事における「乾漆行信僧都坐像」の解説

国宝奈良時代像高88.5センチ夢殿堂内壇上北東向かって右奥)に安置される麻布を漆で張り重ねた脱活乾漆像。もとは彩色されていたが、ほとんど剥落している。法隆寺東伽藍創立者である行信肖像で、頭頂がやや尖り両目吊り上がり鼻翼大きい、個性的な面貌表される両手は膝に置き、持物(じもつ)の如意執る。この如意は角製で、造像当初のものである礼盤形の台座鎌倉時代の作。『法隆寺別当次第』には、永保3年1083年)、夢殿行信像と道詮像(後出)を仏壇下から仏壇上へ移動したとの記録がある。大江親通が嘉承元年1106年)に南都の諸寺を巡拝した際の記録である『七大寺日記』には、行信像は「丑寅角」にあった記されており、本像はその当時から現状とほぼ同じ位置安置されていたことがわかる。行信については生没年含め生涯のくわしいことはよくわかっていない。平安時代末期の『七大寺年表』は行信没年天平勝宝2年750年)とするが、実際それより長生きしたとする説もある。仮に行信没年750年とし、没後まもなく本像が作られたとすると、本像は唐招提寺鑑真像(天平宝字7年763年頃)より十年上古い、日本最古肖像彫刻ということになるが、後述のように、実際制作年代もう少し下るとみられている。『続日本紀』天平勝宝6年754年11月24日条に、「薬師寺行信」なる僧が厭魅(えんみ、呪詛によって人を殺すこと)を行ったかどで下野薬師寺流罪になったとの記事があり、これが東院伽藍創立者行信同一人物か否か同一人物である場合流罪になった人物の肖像作ったのはなぜかという点が疑問である。浅井和春は、天平神護2年766年)、「薬師寺行信」と同じ時に流罪になった大神多麻呂という人物復位したとの記事が『続紀』にあることを指摘し、この時行信の名誉も回復されたのではないか推定したまた、その翌年にあたる神護景雲元年767年)には行信発願大乗経2,700巻(通称行信経)が完成している。このため浅井は、行信復権大乗経完成を機として本像が作られたのではないか想定している。

※この「乾漆行信僧都坐像」の解説は、「法隆寺の仏像」の解説の一部です。
「乾漆行信僧都坐像」を含む「法隆寺の仏像」の記事については、「法隆寺の仏像」の概要を参照ください。

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