中間市の成り立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 00:10 UTC 版)
中間市域は肥沃な遠賀平野に位置していることから古代より稲作の盛んな地域であり、遠賀川式土器など弥生時代の農耕文化を伝える遺物が多数出土している。垣生丘陵周辺には古墳時代後期に作られたと見られる横穴式の群集墓(垣生羅漢百穴:県指定史跡)が多数見られ、この地に有力な豪族がいたことを伺わせる。また、当初宗像郡宗像郷に属し、宗像郡の中心部であったが、遠賀郡が宗像郡から分郡されて誕生したため遠賀郡宗像郷に属すこととなった。 中間市域は鎌倉時代から室町時代にかけて筑前国山鹿城(芦屋町山鹿)を本拠とする豪族麻生氏の所領となり、現在の月瀬八幡宮(上底井野)がある丘陵に猫城という出城が築かれた。その後宗像大宮司宗像氏との勢力争いに敗れた麻生氏は、1578年(天正6年)宗像氏に川西地区を割譲して従属し、猫城には宗像氏家臣吉田倫行が配属された。1580年(天正8年)5月、豊後大友氏の命を受けた筑前国鷹取山城(直方市頓野)毛利鎮実が猫城に攻め寄せるが、宗像勢はこれを撃退している。宗像氏断絶後は、小早川氏が支配した。 江戸時代には黒田藩の所領となり、1621年(元和7年)には度々氾濫していた遠賀川の治水のため遠賀川と洞海湾とを結ぶ運河開削工事が始まった。この運河は堀川と呼ばれ、1762年(宝暦12年)に完成してからは遠賀川一帯の治水、利水に大きく貢献することとなる。 明治時代から昭和時代にかけて、この地で産出される石炭が近代産業を支える重要なエネルギー源として利用されるようになり、筑豊炭田から産出される石炭は遠賀川や堀川を往き来する「川ひらた(五平太船)」という小型の舟を使って輸送されていた。1891年(明治24年)に筑豊本線、1912年(明治45年)に香月線が開通すると鉄道による大量輸送が可能になり、中間は炭鉱の町として全盛を誇った。新手・大隈・岩崎などの炭坑が相次いで開発され、1914年(大正3年)には大正鉱業株式会社が事業を開始した。
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